一流医学誌で論文撤回~新型コロナウイルスの研究に何が起こっているのか

トップ医学誌に掲載された論文が撤回された。何があったのか。(写真:アフロ)

一流医学誌の論文が…

 世界中を混乱に落としいれている新型コロナウイルス。このウイルスに対峙するために、世界中の研究者や医師が研究に取り組み、日々大量の論文が公表されている。

 一刻も早く治療法を、ワクチンを…。

 論文を掲載する雑誌は異例の速さで査読(別の研究者が論文の質や内容をチェックする)を行い、無料で論文を掲載している。

 こんななか、衝撃的なニュースが世界を駆け巡った。

 医学に関わる誰もが注目する超一流の論文誌に掲載された論文が相次いで撤回されたのだ。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の治療に抗マラリア薬を使用することに安全性の懸念があるとした論文の著者4人のうち3人が4日、論文を撤回した。論文は先月、英医学誌ランセット(The Lancet)に掲載された。

出典:抗マラリア薬の危険性指摘した論文撤回 新型コロナ治療

 問題となった論文は以下だ。

 ランセット誌のページに撤回されたいきさつが書かれている。

 論文のデータに関して様々な懸念が提示されたため、調査を行おうとしたが、データを扱った会社であるサージスフィア社がデータの提出を拒否した。このため、データの信ぴょう性が保たれないと、著者4人中3人が論文の撤回に同意した。

 なお、撤回に同意しなかったのは、このサージスフィア社の創業者で、論文の共著者に名を連ねていたSapan Desai氏だ。

 ランセットの論文が撤回されてほどなく、同じく一流医学誌であるニューイングランドジャーナルオブメディシン(NEJM)も、同社のデータを使った論文を撤回した。

サージスフィア社の謎

 ランセットの論文が公表されたのが5月22日。その直後から、サージスフィア社のデータに懸念の声があがっていた。

最初に懸念されたのは、この論文の統計解析とCOVID-19の患者データが、人口統計学的な違いや基礎となる健康状態の違いが知られているにもかかわらず、大陸間で驚くほど均質であったという事実であった。

出典:The scientist記事(DeepLにて翻訳)

 複数のサイトがランセットの論文の問題を取り上げ、研究者たちから公開質問状が提出されるなどしたのち、ランセットとNEJMが懸念を表明。ついに論文が撤回となった。

 イギリスのガーディアン紙は、サージスフィア社の驚くべき内実を明らかにしている。

 記事によると、従業員はわずか3人。SF作家やファンタジーアーティスト、成人モデルだという。

 創業者のDesai氏も、医療訴訟に名前があがったり、ウィキペディアの経歴が削除されるなど、詳細が不明な人物のようだ。

論文撤回の影響

 ランセットの論文は、抗マラリア薬の効果がなく、循環器系に悪影響を及ぼすという内容であり、これを受けてWHO(世界保健機関)が一時臨床試験を中止するなど大きな影響を与えた。

 今回のランセット誌の論文撤回は、近代史上もっとも大きな論文撤回であるとの指摘さえある。

 サイエンス誌の記事によれば、ノーベル医学生理学賞受賞者の大村智・北里大特別栄誉教授が開発した寄生虫治療薬イベルメクチンが新型コロナウイルスに効くというプレプリント(未査読論文)にも同社のデータが使われていたが、いつの間にか撤回されたという。

 しかし、撤回されたことがアナウンスされたわけではないので、撤回された「幽霊のような」論文を根拠に、南米を中心にイベルメクチンが使われているという。

 このように、撤回された論文が様々な場所で影響を与えている。人々の健康にも影響を与えるだけに看過できる問題ではない。

査読制度の崩壊?

 今回撤回された論文は公開されない不透明なデータに基づいていた。International Committee of Medical Journal Editors (ICMJE) data-sharing policy(国際医学雑誌編集者委員会(ICMJE)のデータ共有ポリシー)に反しているといえる。

 今回新型コロナウイルスの論文ということで、査読は簡略化されていた可能性がある。査読をきちんとしていれば、この論文は掲載されなかったのだろうか。

 それは分からない。

 医学論文の多くは、上記ポリシーを順守していない。

 今回の「史上最大の論文撤回」は、査読という制度に大きな疑問を投げかけている。

 ガーディアン紙は査読制度を以下のように手厳しく批判する。

最悪の場合、それは権威を不当に誇示する粉飾に過ぎず、真の価値を与えず、正統性を強要し、明らかな分析上の問題点も、まったくの不正行為も見落としてしまうような、おざなりなプロセスである。(DeepLにて翻訳)

出典:ガーディアン記事

 査読はボランティアの研究者が行うが、査読を熱心に行おうとすれば自分の論文が書けなくなり、査読に指名されなくなるという悪循環を引き起こす。査読が雑になるのは構造的な問題と言える。

 ならば査読をなくしてしまえばよいのか。

 今回の新型コロナウイルスの感染拡大で、査読前論文を掲載する「プレプリントサーバー」に多数の論文が掲載されている。

 プレプリントは数学や物理などで始まった。現在では医学や生物学などにも広がり、査読による時間や手間を簡略化すると期待されている。

 しかし、質の問題もある。プレプリントの段階で報道されたり、政策に取り入れられたりするなど、研究が独り歩きしてしまう危険性も指摘されている。

 質に関しては、査読論文も問題であり、査読の有無では論文の質を推し量ることができないということになる。

 いったい学術研究はどうあるべきなのだろうか。

情報の透明性がカギ

 今回のランセット論文では、論文公開直後にPubPeerなどのウェブサイトで疑問が呈された。5月22日発表の論文が2週間後の6月5日に撤回されたわけで、被害は最小限に抑えられたと言えるかもしれない。

 これはSTAP細胞事件を彷彿とさせる。STAP細胞事件も一流科学誌と言われるNature誌の論文だったが、PubPeerを含むウェブサイトで議論され、それが論文撤回につながった。

 いわば公開査読と呼べる状況だ。

 事前におかしな論文を防ぐことはできない。だとすると事後にいかに早期に対応するかが重要だ。そのためにも情報の公開を徹底し、透明性を確保することが不可欠だ。

 報道機関も、報道から科学情報を知る一般の読者も、少なくとも発表されたばかりの論文は疑ってかかったほうがよいだろう。

 新型コロナウイルスの論文はこれからも多数発表される。報道も多くされる。しばらくは今回のような混乱が続く可能性があるが、研究者、論文誌、報道機関、一般の読者も含め、新たな学術情報との関係を作っていく必要があるだろう。