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コロナ対策は「戦争」ではなく…

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
2020年5月4日に首相官邸で行われた記者会見(小川裕夫撮影)

 新型コロナウイルスの感染がヨーロッパで深刻な広がりを見せて以降、現状を表現するのに、「戦争」という言葉が使われることがしばしばある。それに、強い違和感を覚えてきた。

他人事から一気に「戦争」状態へ

 中国・武漢でこのウイルスが猛威を振るっている頃、欧米の人たちの態度は他人事だった。アジアに対する差別的な振る舞いも、(日本にいてさえ)目についた。

 それが、イタリアで感染者が急増し、自国も危ういと気づいて、それぞれの国がようやく本気で対応をし始めた。

 と思ったら、それは瞬く間に、罰則付きの外出禁止などの強い措置となった。けれども時は遅く、イタリアの他、スペインやフランスでも、連日3桁の死者数が発表された。

 フランスのマクロン大統領は、20分ほどのテレビ演説の中で「戦争」を6回も繰り返した。当初は「春になればウイルスは消える」との楽観論で対応が遅れたアメリカのトランプ大統領も、死者が相次ぐ状況に、一転して「戦時大統領」を自称する。イタリアでは、外出禁止を守らない人々を、自治体の長が「私たちは本物の戦争状態にある」と叱りつけた。

「戦争」の”効果”

 インターネットを含むメディアでも「コロナ戦争」などの表現をしばしば見る。

 橋下徹・元大阪市長もテレビで「コロナ対策は戦争」とぶち上げ、「戦争状態のときに財布のひもを気にしてて勝てるわけない」と力説。それをスポーツ新聞が報じる形で、ネットでも拡散されている。

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 国や自治体の長は、「戦争」という強い言葉で危機感を共有し、人々の不満を抑え込み、「Stay Home」の指示を徹底させようとする。人の目を引きたいメディアや論者にとっても、「戦争」が与えるインパクトの大きさは魅力的なのだろう。

 言葉は重要だ。そうやって為政者や声の大きい論者の口から「戦争」が語られ、日常の中に「戦争」という言葉が入り込んでくると、それが人々の思考や行動に様々な影響を与えかねない。「戦争」という言葉には、人を浮き足立たせ、冷静な思考を鈍らせる作用があるように思う。「戦争」なんだから仕方がない、「戦争」なんだからイケイケとなって、後先のことを考えない、という雰囲気もできてしまわないだろうか。

これほど「国」を意識する事態はないが…

 こういう時だからこそ、私はモノゴトの実像をしっかり見て考えたい、と思う。写真や動画もある現代だが、言葉の力は強い。歴史も、言葉によって残される。けれども、「戦争」という言葉は、今の実像を的確に表しているだろうか。

 「戦争」は「国家」を強く意識させる。「個人」の自由や権利は「国」が戦争に勝つという目的のために抑圧され、愛国心がたたえられ、暴力が肯定され、「国家」のために命まで犠牲にされる。

 たしかに、今ほど「国」を意識しなければならない事態は、(日本を含む)多くの国では、近年なかったと言えるだろう。国と国の行き来が著しく制約され、域内の往来が自由だったEUでも、各国で国境が閉鎖された。世界の中には、ほぼ鎖国状態と化した国もある。各国はチャーター機を飛ばして、自国民の外国からの帰国を促したり助けたりした。

 各国とも、自国の感染や死者を食い止めるのに精一杯。マスクを含めた物資不足が深刻だったイタリアは、EU各国に助けを求めたが、ドイツもフランスも自国のマスク管理を強め、輸出を禁じた。麗しき連帯は、自国第一主義の後景に退いた。

 あるいは米国が既に契約を結んだ他国よりも高い価格を払って、マスクなどの医療関連物資を買い占めたり、トランプ大統領が医療用マスクなどの輸出を禁じるなどの措置に出た。私たちも、様々な機関から発表される、国別の感染者や死者の数を見て、自国のそれと比べてみたりする。国のリーダーの発言にも、関心が集まる。

対策は「国家」のためではなく

 けれども、新型コロナウイルスの感染防止のために各国政府が人々の権利を抑制するなどの様々な対策は、「国家」のためではない。そこに暮らす一人ひとりの命を守るため、だ。

 また、戦い方次第で「国家」がなくなるわけでもなく、それぞれの国の歴史はこれからも続く。為政者が、後先のことをまるで考えず、今の「勝ち」しか考えなくなったら、やはり困るのではないか。

 国のリーダーや感染症対策の責任者などは、ウイルスを早期に抑え込むことに”国家の威信”をかけているかもしれないし、それに成功した国の人々は、自国に誇りを感じてよいと思う。他国が、そこから学ぶところも大きい。ただ、対策にはそれぞれの国情が反映され、人権や個人情報・プライバシーなどに関する捉え方も違い、単純に優劣を決めきれないところもある。多くの犠牲を出した国は、自国の国情や人々の価値観などに照らして、学ぶところは学び、対策を強化すればよいのであって、「敗戦」して国が滅ぶわけではない。

 治療薬やワクチンの開発も、先んじれば科学技術の力を示せるし、莫大な経済的利益をもたらすことを考えれば、国家間の競争と言えないこともない。ただ、その恩恵は、当該企業や国家だけではなく、広く全世界の一人ひとりにもたさらせる。

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今は「国家」が「個人」に尽くす時期

 国境の壁を高くし、強化しても、それでウイルスの蔓延は食い止められない。各国政府の対策は、それぞれの国民にとって強い関心が向けられるのは当然だとしても、「国家」がウイルスを撲滅できるわけでもない。たとえ政府がすばらしい対策を実施して、当該国民の感染や死者を最小限に抑えたとしても、世界でウイルスが猛威を振るっている状態では、危機を収束させることはできない。たとえば、日本で感染をゼロに抑え込むのに成功しても、様々な国や地域で蔓延していれば、オリンピックは開けないだろう。

 感染症がもたらす公衆衛生上の危機は、「国家」が行う「戦争」ではない。そのことははっきりさせておきたい。この危機が生じさせる経済的、文化的危機などについては、各国の政府が主導して対策をとることになるが、それでも「国家」が強権を振るい、そのために「個人」を犠牲にする「戦争」の範疇にくくるのには強い違和感を覚える。

 今は「個人」が「国家」の犠牲になるのではなく、「国家」が「個人」のためにどれだけ尽くせるかが、問われているのである。

安倍首相は「第3次世界大戦」と言ったのか?

 なので私は、安倍首相が今の事態を「戦争」にたとえなかったことに、ホッとした。ただ一度、ジャーナリストの田原総一朗氏が4月10日に面談した際の安倍首相の言葉として、「このコロナウイルス拡大こそ、第3次世界大戦であると認識している」と述べた、と自身のコラムに書いたことがある。

 昨今のコロナ禍の中でも、憲法に「緊急事態条項」を入れようという趣旨の発言もしている安倍首相だけに、田原氏の記述に「さもありなん」と思った人は多いのではないか。私も、そんな気持ちになる一方で、そういう認識があれば、記者会見で述べるのではないか、といぶかしく感じてもいた。

 それから20日ほどして、憲法記念日の『夕刊フジ』インタビューで、安倍氏自身がこの発言を否定した。

「(第3次世界大戦は)田原さんの発言で、私は『そういう見方もありますね』と答えただけだ。そもそも、人類が2つの陣営に分かれて戦うのと、人類が一致結束して『未知のウイルス』と戦うのは違う。私がそんな発言をしたことはない」

 いずれの音声も聞いているわけではないので、断言はできないが、後からわざわざ否定コメントをしているからには、安倍首相としては田原氏のコラムは相当に心外だったのではないか。「戦争」にたとえない理由も、まっとうだ。

意外だった安倍政権の対応

 コロナ関連に関しては、安倍政権のこれまでの対応は、強権的なものでは決してない。小池東京都知事が緊急事態宣言の発出をせっつき、迅速で強い権限行使を求める中、「私権の制限」に慎重な安倍政権の対応を見るたびに、私は不思議な思いにとらわれた。

 新型インフルエンザ等特措法の改正で、政府の権限を強化し、いち早く緊急事態を宣言して、「戦時の宰相」として振る舞うのでは……と危惧していたのに、まったく逆の対応だったからだ。

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 各地で、自粛要請に従わないパチンコ店に対し、知事が名前を公表し、休業に追い込む、ということが行われた時にも、政府は慎重だった。

 要請に従わない業者には罰則が必要、との声もあがった。これには特措法の改正が必要である。

 しかし安倍首相は、4日の記者会見で慎重な見解を示した。

「国の権限強化や、更なる私権制限を行うための立法措置については、どうしても必要な事態が生じる場合については、当然検討されるべきものと考えていますが、今は、引き続き国民の皆様の御協力を頂きながら、都道府県としっかりと協力をしながら進めていきたいと思っています」

 相変わらず、自分の”岩盤支持層”からの求めには、「(改憲)の決意に揺らぎは全くありません」と威勢良く語るものの、現実の危機に臨んでの権限発動には、むしろ慎重に過ぎるほどである。逆に、日頃はリベラル的な立場をとっている人が、強権に期待するような発言をしている状況だ。

記者会見で語る安倍首相(小川裕夫撮影)
記者会見で語る安倍首相(小川裕夫撮影)

 このような安倍首相の態度に、「元々安倍氏は強権的ではない」という人もいれば、「安倍氏には強権志向と経済優先志向が同居しており、今回はことの性質上、後者が前者に優先しただけだ」と見る人もいる。

 確かに、経済への配慮が慎重な対応の一因だろう。だが、「経済優先」というには、政府のコロナ対策は医療や公衆衛生の専門家に依存してきた。

安倍首相の記者会見に同席して説明する尾身氏
安倍首相の記者会見に同席して説明する尾身氏

 専門家会議の尾身副座長は、5月4日の記者会見で「ここにいる我々はほとんどが医療、公衆衛生、ウイルス等々の専門家で、そういうものとして提言をしてきた」「専門家会議としては再三再四、我々の意見と経済のプロからの提言の両方を見た上で最終的な判断をして下さいと、政府に申し上げてきた」と述べている。

 ようやく、その要請に対して、政府から「『わかった、なんとかしよう』というお返事を今日頂いた」とのことだが、経済優先にしては遅くはないか。

 経済対策のほか、検査態勢の不十分さや医療現場での防護グッズ不足、あるいは首相自ら自粛要請を行って、緊急事態宣言より一か月以上早い時点から”緊急事態”に突入したままになっている文化芸術関連への支援不足など、一連の政府の対策には厳しく批判すべき点、是正してもらわなければならないところがたくさんある、と思う。そうした点は、しっかり問いただしていかなければならない。

 それでもなお、政府が強権を振りかざし「戦争」モードに入るのではなく、私権の制限には細心の注意を払おうという基本的な姿勢でいる点については、私は評価している。

日本型対応のメリットデメリット

 欧米のような強い権限行使でなく、要請とそれに応えての自粛、という日本型には、問題もある。たとえば、責任の所在が明確でない点。自粛による損害は本人がかぶることになり、それに対する支援も十分ではない。また、協力しない者に対しては強い同調圧力がかけられ、自警団的な”自粛警察”ができて、いじめや嫌がらせのようなことが起きる。

 その一方で、人々を刑罰の威嚇によって従わせるのではなく、個人の自由の制限をできるだけ少なくしつつ、繰り返し自粛や行動変容を求め、一人ひとりの自覚と節度ある行動を促していくやり方は、それぞれの個人が自分の環境や生活を見直し、自分ができることは何かを考える契機にもなりうる。

 ウイルスとの「戦い」は、簡単に勝負はつきそうもない。もはや「戦い」というより、その勢いをできるだけ押さえ込み、コントロールする形で「共存」することを目指さなければならないようだ。

 刑罰をもって強制されるのではなく、一人ひとりが自分で考え、行動を少しずつ変えていくことは、この長い「共存」の備えた準備にもなるのではないか。海外から見れば、曖昧で緩すぎて分かりにくいかもしれないが、私としては、当局の権限行使を抑制し、言論の自由や個々のプライバシーを守りながら、ウイルスの感染拡大を弱めていくことを目指したいと思う。

 幸い、ボールペンやスリッパまで「抗菌グッズ」が売られるなど、清潔好きは日本人の国民性とも言える。手洗いなどの対策は、かなり浸透し、実に几帳面に実行している人も多いのではないか。

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 今を、「国家」に動員されて「戦争」を遂行するのではなく、自分の命と生活、大切な人や社会を守るために、何をすべきか、何をしない方がいいのかを考えていく時にしたい。

言葉は大事

 これには、きっとこんな反論が来るだろう。

「いや、『受験戦争』とか『交通戦争』とか『貿易戦争』とか言うではないか。そういう比喩と思えばいいじゃないか」

 確かに、これまでも「大変なこと」のたとえに、「戦争」はしばしば使われてきた。それは、起きている事柄は明らかに「戦争」とは別物である、という前提で、悲惨さや深刻さを強調し、人々に問題のインパクトを与える比喩であった。

 今のコロナ禍は、十分に悲惨であり深刻であって、そのような修辞は不要だ。必要なのは、現状をありのままに認識することだと思う。

 そんなことを考えていたら、東京電力の原発事故発生の直後、表紙に防毒マスクをかぶった人の顔と「放射能が来る」という赤字の大見出しを掲げた雑誌について、劇作家の野田秀樹さんが書いた一言を思い出した。彼は、その雑誌への連載を打ち切りを宣言したのだが、その中でこう書いていた。

〈たった一言でも、重いコトバがある、と私は信じる〉

 人々の恐怖や不安といった感情を煽るより、危機の時こそ、実態を正確に表す表現が何より必要だ、という趣旨の文章だった。深く感銘を覚えた。

 だから今、私は「戦争」という言葉は使わないようにしたい。

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ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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