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話題の作品と年表を見る~「表現の不自由展」を報告する(下)

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

 「不自由展」は、天皇タブーをテーマにしたコーナーを過ぎると、広々とした室内に様々な展示を見ることができる。

 中でも、目を引くのは、中垣克久さんの竹と紙で作られたドーム型の作品と、慰安婦を象徴する《平和の少女像》だ。

作者の主張がダイレクトに伝わる作品

 

 中垣作品のタイトルは《時代(とき)の肖像ー絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳ー》。周囲に政治的なメッセージや記事のコピーが張られ、頂上に出征兵士のためと思われる寄せ書きされた日の丸が置かれ、しめ縄がそれを囲む。ドームの中の床には星条旗が置かれ、「9条改憲」についての新聞記事が載っている。作者の政治的な主張がダイレクトに伝わってくる作品だ。

 2014年に東京都美術館で開かれた「現代日本彫刻作家展」に出展されたが、「政治的な宣伝になりかねない」として美術館側が撤去を求めた。協議の末、ドームの側面に張られた「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止して、もっと知的な思慮深い政治を求めよう」などと赤字で手書きされた紙が撤去され、本体は残った。今回は、問題にされた紙もそのまま展示されている。

中垣さんの作品を後ろから見る
中垣さんの作品を後ろから見る

慰安婦少女像に見る2つの思い

反日、日本批判としての少女像

 一方、この中垣作品の向こうで存在感を示している等身大の少女像は、日本の美術館や公的施設で排除されたことはない。その点では、「組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品」を展示するという「不自由展」の趣旨とは、ややズレる。ただし、その後ろに展示されているミニチュア版は、2012年に東京都美術館で行われたJAALA国際交流展に出品されたが、途中で展示中止となった経験を持つ。

左手奥にあるのが、かつて公立美術館で展示中止となったレプリカ。床の黒い板は、少女像の由来を韓国語英語日本語で説明した掲示
左手奥にあるのが、かつて公立美術館で展示中止となったレプリカ。床の黒い板は、少女像の由来を韓国語英語日本語で説明した掲示

 少女像は、慰安婦問題での日本政府の責任を追及して、「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協、現在は『日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯』)」などが毎週水曜日に行ってきた抗議行動が1000回になるのを記念して、2011年12月にソウルの日本大使館前に設置された。「不自由展」では、その経緯を示すプレートのレプリカも展示されている。

 反日デモはその後も続いており、日本政府は韓国政府に対して像の撤去を求めてきた。これに対し、韓国では少女像を国内各地に設置。欧米でも、韓国系住民などが中心となって設置を進めている。作者の1人キム・ウンソンさんも、メディアで「日本政府が心から謝罪し、反省しない限り、いつでもどこでも少女像を作る。違った姿の少女像をいろいろ考えている」(2014年1月17日聯合ニュース)などと語っていた。

平和の象徴としての少女像

 その一方で、今回の「不自由展」を巡って、この像の「反日」とは異なる側面もメディアでは紹介された。たとえば、8月14日付朝日新聞GLOBE+では、「ドイツでは韓国の少女像が『戦争で性被害に遭う女性のシンボル』として扱われています」と書いている。作者の1人キム・ソギョンさんも、あいちトリエンナーレへの出展について、「少女像は反日の象徴ではなく、平和の象徴であることを知らせるために展示会への参加を決意した」と述べた。

横にある椅子に座って少女像を見てみる
横にある椅子に座って少女像を見てみる

 作者の中には、日本を糾弾する気持ちと、もっと普遍的な平和への思いが併存し、展示の場やその時の状況によって、異なる側面を見せるのだろう。しかも、像を見て、どちらのメッセージを強く受け取るのかは、その人の心持ち次第。これもまた、小泉さんが言う「鑑賞者の心の中で完結する」ということなのだろう。

 「不自由展」HPの解説は、少女像を「戦争と性暴力をなくすための『記憶闘争』のシンボル」と紹介している。それは、「不自由展」実行委の見方で、実際に見て触れた人が、この像に「反日」を感じて反発するか、「平和」への願いで共感するのか、どちらが正解とはいえない。

 私の個人的な感想を言えば、中垣作品と少女像、この両作品では、残念ながら「美の体験」は味わえなかった。片方は政治的メッセージが強烈で、もう片方はこれまでに接した情報が多すぎて、想像力が固まって動かなかったのだ。

生き抜こうとする被災地の若者たち

 これに対して、心を揺さぶられたのは、Chim↑Pomの映像作品《気合い100連発》だ。2011年5月、東北大震災の津波被害からまもない、福島県相馬市内の港で撮られた。がれきがまた全然片付かない中、若い男女が円陣を組み、思い付く言葉を順番に叫んでいく。「頑張るぞ~」「放射能に負けない」「日本最高!」「ありがとう!」などといった決意や感謝もあれば、「車欲しい!」「彼女欲しい!」といった自分の欲求も。

映像作品《気合い100発》より
映像作品《気合い100発》より

 Twitterなどでは、この途中で「被曝最高!」「放射能最高!」という言葉が出たことを咎める人もいた。部分的に文字起こしすれば不謹慎に思うかもしれないが、そういう人たちも実際の作品を見れば評価は変わるのではないか。

 未曾有の災害で、多くの人が亡くなり、生活の場は破壊され、そのうえ原発事故が進行中で不安の中にいる。そんな若者たちが、仲間と肩を組み、不安を振り払うように叫ぶ「最高」は、「喧嘩上等」と同じく、「来るならきやがれ」「受けて立つ」といったといったいわば気負いの表現だろう。しかも、その後には「最高じゃないよ!」「ふざけんな!」という叫びが続く。

 あの困難な時を思い出し、懸命に故郷で生き抜こうとする若者たちの健気さに、私は心打たれた。作品の一部だけで評価をすることの危うさを、この一件は示しているように思う。

 「不自由展」の解説によれば、この作品も「ある国でのビエンナーレへの出品をキュレーターから打診された際に、主催者の国際交流基金よりNGが出た」とのことだ。

いくつかの作品に感じた疑問

 展示作品の中には、「組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品」という企画展のコンセプトに照らして、どうなのか、と首を傾げるものもあった。

 たとえば、ニューヨーク近代美術館(MOMA)で開催された「TOKYO 1955-1970 :新しい前衛」に展示された、横尾忠則さんのポスター。旭日旗のデザインが使われているとして、在米韓国系住民が撤去を求めて抗議活動を展開した。しかし、美術館側は「過去の日本帝国主義と軍国主義の単純な称揚を意図したものではない」と反論している。美術館側の反論が、必ずしも横尾さんの意図に叶うものではなかったとしても、「表現の機会」は奪われていないのではないか。

旭日旗デザインが問題とされた横尾さんの作品
旭日旗デザインが問題とされた横尾さんの作品

 こうした作品が展示されるなら、東京都現代美術館から撤去要請を受け、広く話題になった会田誠さんの「檄」などをなぜ展示しなかったのだろう。ネットなどで美術館への批判が高まり、撤去はされずに済んだ。人々が表現の自由を守った事例として、展示する価値はあったと思う。

 また、「腐敗の怖れがある」として美術館での展示を拒まれた箱入りのお菓子も、「不自由展」に出品されていたが、果たしてこれが「検閲」に当たるのだろうか?とも思った。

腐敗の可能性を指摘されて展示できなかったお菓子。これって検閲?もらった箱入りお菓子の展示が、果たして出品者のアート作品なのかなあ…という疑問も
腐敗の可能性を指摘されて展示できなかったお菓子。これって検閲?もらった箱入りお菓子の展示が、果たして出品者のアート作品なのかなあ…という疑問も

 岡本光博さんの《落米のおそれあり》は、2017年の沖縄県うるま市の地域美術展「2017イチハナリアートプロジェクト+3」(主催・うるま市観光物産協会)に出品された。この美術展は、同市の人口265人ほどの伊計(いけい)島の観光振興施策として立ち上げられ、その後いくつかの島にまたがる「アートによる島おこし」が目的のイベントに成長している。

 作品は、島で唯一の商店「共同スーパー」のシャッターに塗料で描いたものだ。「落石注意」の交通標識をもじって、在日米軍の事故や不時着が相次ぐ現実を、ユーモラスに告発した。

岡本光博さんの《落米のおそれあり》
岡本光博さんの《落米のおそれあり》

 ところが、地元の自治会長の元に、住民から「人を呼びたいのにこれでは地域振興に逆行する」との苦情が届いた。この島では、この年1月に普天間飛行場所属の米軍ヘリコプターが農道に不時着する出来事もあった。報道によれば、会長は「その時は我々は抗議したが、(この作品については)それとは別問題。基地問題には様々な意見がある。政治と切り離した作品がふさわしい。イベントは活性化を目指すもので、作家のためのものじゃない」として、撤去を求め、共催する市が非公開を決めた。

 その後主催者は、美術関係者や識者らからの批判を受け、作品をシャッターごと切り取って、同島外の別の場所に移動して展示を行った。

 美術館という閉鎖空間では、違法・不法なものでない限り表現の自由が最大限に生かされるべきだ。一方、人々の生活空間に現れるパブリックアートの場合は、そこに生活する人の「見ないで済ませる自由」を考えないわけにはいかない。アート作品が、場合によっては、人々のトラウマを刺激したり、対立を招いて、アーティストの「表現の自由」が「表現の暴力」になる危うさもある。

 沖縄では、基地問題は選挙のたびに激しく意見が戦わされる、重要な、だからこそ、極めてデリケートな政治課題だろう。それを考えると、本作品を「組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品」の中に組み入れるのはどうなのだろうか、という気がする。

年表を巡る疑問の数々

 壁の一面には、「表現の不自由をめぐる年表」が掲げられ、2001年以降の様々な出来事が列挙されている。これについても、取捨選択の規準は非常に分かりにくい。

 たとえば、2016年6月に「精神科医・香山リカ氏の講演会が、東京・江東区社会福祉協議会が妨害予告を受け中止」はあるが、同じ月に一橋大学の大学祭で予定されていた作家・百田尚樹氏の講演会が抗議で中止になったことは記載されていない。

 このへんは実行委員会の価値観に基づくのかもしれないが、これはどうだろうか。

 映画について、2008年3月「ドキュメンタリー映画『靖国』が右翼団体などの抗議で相次いで上映中止」や、2018年10月「映画『沈黙―立ち上がる慰安婦』の茅ヶ崎市での上映会に対し市と市教育委員会が後援していることに抗議活動が行われた」という記載はある。他方、2016年にイルカ猟の「残酷さ」を告発するドキュメンタリー『ザ・コーヴ』の上映が各地で中止になったり、アンジェリーナ・ジョリーが監督した『不屈の男 アンブロークン』が日本軍の捕虜の取扱いの描き方に批判が起こり「反日映画」だとして、東宝東和が配給を見送ったりしたことは掲載されていない。

「表現の不自由」に関わる年表
「表現の不自由」に関わる年表

 また、2012年3月に「社会の出来事」として「のちにヘイトスピーチと言われる差別・迫害のデモが各地で始まる」とあるのに、2016年の5月に可決・成立し、6月から施行されたヘイトスピーチ対策法については言及がない。地方自治体でも、同年1月に大阪市で全国初のヘイトスピーチ条例が作られ、さらに今年6月に川崎市でヘイトスピーチを行った者に刑事罰を科す条例案が出されて、「表現の自由」とのかねあいで議論されたことも載っていない。

 記載内容が不十分、あるいは不正確というのもある。

 海外の出来事で、唯一取り上げられたシャルリー・エブド事件についての記載はこうだ。

「イスラム教を冒涜した漫画で、パリでシャルリー・エブド襲撃事件が発生」

 これによって12人が殺され、テロリズムに抗議し、表現の自由を訴えるデモがフランスをはじめ各国で起きたことについては言及をしないのは、この事件を「表現の不自由」に関連する出来事と位置づけるうえで全く不十分だと思う。

 2018年には、福島と現代美術作家ヤノベケンジさんについて2つの記載がある。

「ヤノベケンジ《サンチャイルド》が福島市の子ども施設前に設置。議論が不十分として批判が集まり、9月に撤去される」(8月

「福島ビエンナーレ2018で、ヤノベケンジ、開発好明、木下史青、青木くるみらの4作品が出品見送り」(10月)

 設置に対する批判の中身についての記載が正確でないし、4氏の出品見送りも、それぞれ事情は異なる。特にヤノベ氏が人々の心情に配慮したコメントを発表し、ビエンナーレで住民との対話の場を作るなど、福島に積極的に関わっていく誠実な姿勢を見せていることも伝わらないのではないか、といらぬ心配をしてしまった。

公民館月報に掲載を拒否された9条俳句も展示
公民館月報に掲載を拒否された9条俳句も展示

 2018年12月に「首相官邸が内閣記者会に、官房長官会見での東京新聞・望月衣塑子記者の質問制限を要請」とあるのも、記載が必ずしも正確・十分とはいえないうえ、「表現の不自由」年表に掲載するのに取り上げる事項としては、いささか違和感が拭えない。

 「表現の自由」に関わる報道における重大な出来事としては、むしろ、韓国で産経新聞の前ソウル支局長が、記事の中で朴槿恵大統領(当時)の名誉を毀損したとしてソウル中央地検の取り調べを受け、出国禁止処分とされ、起訴され(2014年10月)、結局無罪となった(15年12月)事件を取り上げるべきではないのか。

 このように、年表を子細に見ていくと、「不自由展」実行委員会の価値観の傾向が見えると同時に、そうは言っても、はっきりした基準がなく、メンバーの好みや思いつきによる取捨選択もあるのではないかな、という気がしてくる。展示作品の選択に当たってはどうだったのだろうか……。

作品を見ずに批判する事態が二度とないように…

 実際に作品を見ることが出来たので、学ぶところも多く、感じるものがあり、こうした疑問点も見えてきた。「不自由展」が再開されて、本当によかったと思う。その一方で、再開までの時間がかかり、入場制限もあって、多くの人が自分の目で見て考える機会が得られずに終わってしまったのは、大変残念だった。

 今回の出来事では、作品をちゃんと見ていない人が、断片的な情報だけで怒り、傷つき、非難していたように思う。このような非難によって、作品が封じ込められたり、展覧会などの鑑賞の制限がなされたりするような事態が二度と起きないようにしなければならない、と改めて思った。

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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