【オウム裁判】論理は飛躍し、オウムの特異性は置き去りに~菊地直子への判決

都庁爆弾事件で爆薬の原料を教団アジトに運んだとして起訴されていたオウム真理教元信者の菊地直子被告に対する東京地裁(杉山愼治裁判長、江見健一裁判官、戸塚絢子裁判官)の判決は、懲役5年(未決勾留日数中400日算入)の実刑となった。検察側の求刑は爆発物取締罰則違反(以下、爆取)と殺人未遂罪のいずれも幇助罪で懲役7年だった。一方、弁護側は使用目的を知らなかったとして、無罪を主張。それに対して、判決は爆取は成立しないとしたものの、「関与は消極的ではない」として、殺人未遂での責任を厳しく認定した。

爆取は認定せず

法廷での菊地被告(コピー及び無断転載絶対厳禁)
法廷での菊地被告(コピー及び無断転載絶対厳禁)

被害者は片手の指を全部失うなどの重い後遺障害を負ったことを考えれば当然、と考える人もいるかもしれない。実際、材料がなければ、事件は起こせなかったわけであり、彼女はその結果に対して道義的責任を負う。事件とは真摯に向き合わなければならない。

ただ、事前に使用目的を知らずに、ただ言われたものを運んだだけだとすれば、刑事責任を問うことはできない。実際、今回の裁判では、彼女は中川智正死刑囚の指示で自分が運んだ薬品で爆薬が作られ、井上嘉浩死刑囚らが爆弾を作ることまでは認識していなかった、と認定した。

では、なぜ殺人未遂の方は有罪になったのか?

判決の論理展開はこう行われた

判決は、いくつかの事実から「推測」や「推認」を重ね、次のように論理を飛躍させながら、菊地の内心を推し量っている。

*中川が薬品を至急必要としていると、菊地は認識したはず。

*薬品の量が多い。

☆中川は薬品を隠すために運ばせたのではなく、使用する目的があり、何らかの化合物を大量の製造する意図があると、菊地は認識した。

★井上らが大量合成した物を用いて何らかの活動をしようとしていることを、菊地は察したはず

*薬品のラベルに硝酸98%や劇物の記載もあった

安全な物を作るとは考えにくい。

★★危険なものがありうると認識し得る

そして、★や★★から、以下のように「可能性」を導き出す。

〈井上らの活動に伴って人の殺傷が生じ得ることも想起することが可能である〉

「危険なもの」にもいろいろあるが、ここでいきなり「殺害」の可能性が飛び出す。ただ、そういう連想も成り立ちうるという程度。「生じ得ることも」「想起することが可能」と、二重に曖昧化された「可能性」に過ぎない。しかも、果たして菊地被告の内心で、実際にそんな「可能性」が「想起」されたのか、まったく検討されない。

にもかかわらず、一気に以下のような結論へと突き進む。

「可能性」がいつの間に「事実」へ格上げ

〈被告人は、井上らが行う活動は、社会の中で事件を起こすことであって、その際に人の殺傷を伴うことがあり得ると認識した

いくつかの事実から菊地の内心を「推認」し、そこから曖昧模糊とした「可能性」が膨らみ、最後には菊地被告が現実に「認識した」という「事実」に格上げされてしまった。

このやり方で人の内心を推し量れば、「ない」認識を、いくらでも「あった」ことにしてしまえるのではないか。こうした論理展開に使うための細々した事実は、裁判官たちが拾い出し、裁判員たちに提供したものだろう。

それができれば、オウムを辞めている

オウムこそ毒ガス攻撃の被害者とする教団ビデオで語る菊地被告
オウムこそ毒ガス攻撃の被害者とする教団ビデオで語る菊地被告

そのうえ、この判決ではオウム真理教の狂気、組織の特殊性、信者の特異な心理状態が、そっくり置き去りにされていた。

判決では、同僚の女性信者から、2人の上司だった土谷正実死刑囚が、サリンを分析していたことを伝えられた時に、菊地被告は教団と地下鉄サリン事件の関連について「疑念を抱くはず」とした。事件に関与してないと信じているなら、その情報に驚いたり、土谷が分析していた時期を「確認するはずである」という。そういう反応がないからには、すでに教団の関与を疑っていたと、認定した。

ここにも、論理の飛躍があるが、それはさておく。

1つ指摘しておかなければならないのは、そんな風に、自ら疑問を抱き、自発的にそれを確かめることができる状態であれば、彼女は早々に教団を離脱していただろう、ということだ。それができないからこそ、「オウムこそ毒ガス攻撃を受けている」という突拍子もない教団の説明を信じたり、言われるままにずるずると薬品運搬に携わってしまったのだ。

オウムでは、上からの指示は絶対正しく、疑問を持つことは御法度。それに慣れた信者たちは、実行する手段は考えても、指示そのものの是非や教団の行動の評価については考えることはないのが常だった。

判決後の記者会見に出席した裁判員は3人。
判決後の記者会見に出席した裁判員は3人。

ところが今回の裁判では、”普通の事件”として裁かれた。判決後に会見に応じた裁判員の一人は、元信者の証言を聞いて「普通の人とあまり変わらない」との印象を受けた、という。それは、脱会から歳月が経っているためかもしれない。ただ、教団についても「一つの会社みたい。ちょっと違えば、社会貢献ができただろうに」と述べたのには驚いた。裁判の中では、教団の特異性、信者の思考停止状態について、裁判員にはほとんど何の情報も提供されていなかったので、無理もない。

裁判員の中には、事件当時幼かった人もいる。そうであれば、丁寧にオウム事件の特色や傾向について情報を伝えるべきだろうが、審理の迅速さが求められる裁判員裁判ではそれもままならない。

その一方で裁判所は、検察の求めに応じ、事件と無関係の元信者を次々に呼んだ。事件関係者は2人だけなのに、5人の無関係の信者が出廷した。これ自体、かなり偏った訴訟指揮、と言わなければならないだろう。呼ぶのであれば、アジトに滞在したり出入りしていた元信者を呼ぶべきだった。それをしなかった裁判所の意図は図りかねる。

被告人の反省のためには

菊地被告は、判決を不服として、その日のうちに控訴した。当然だろう。

有罪判決、とりわけ実刑の場合は、被告人に一定の納得を与えることは重要だと思う。有罪判決を受けた者に対しては、社会は刑務所の中で償いをすると共に、反省を深めたり、二度と犯罪に関わらない誓いを期待しているだろう。ところが、判決にまったく納得できないとすれば、そういう反省や悔悟のプロセスに入ることはできない。それどころか、自己憐憫や被害者意識が膨らみ、事件を向き合うこともできないのではないか。それが気になる。

また、一昨年に捕まった特別手配犯3人のうち残る高橋克也被告の裁判は、公判前整理手続に時間がかかり、実際の裁判は来年になりそうだ。彼の場合、地下鉄サリン、假谷さん拉致事件やVX殺人など、重大事件への関与が多く、死刑求刑の可能性がある。それを考えればなお一層、教団の本質に迫る丹念な審理が必要だ。迅速性よりも、中身の濃い裁判にしていかなければならない。果たして裁判員裁判が適切なのか、裁判所の訴訟指揮はいかにあるべきか、今一度検討してもらいたい。

(本稿の後半は、本日付日刊スポーツ新聞の原稿に大幅加筆しました)