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【ガザからの報告】⑦ (24年1月27日)前編―戦車の砲撃―

土井敏邦ジャーナリスト
空爆で家族を殺された男(撮影・ガザ住民)

【ガザからの報告】⑦ (24年1月27日)前編

        ―戦車の砲撃―

【弟と義弟が即死】

 近くで戦車のエンジンの音が聞こえました。戦車はとても大きな音を立てるんです。窓から2台の戦車が近くに見えました。500メートルほど離れていました。私はすぐ家族に、家の西側に移るように言いました。家の東側に2台の戦車、さらにその近くに3台の戦車がいましたから。

 次の瞬間、大きな爆発音がしました。それが最初の砲撃でした。それから10秒後、2発目の砲撃音がしました。その砲撃が私の家を直撃したんです。家の中に、黒い煙と埃が立ち込めて、周囲が見えなくなりました。隣人たちが金切り声を上げるのを聞きました。さらに次の砲撃音が聞こました。おそらく隣人の家を狙っていたと思われます。

 しばらくして家の中の様子が見えるようになったので、私は家の中を歩きまわって、「誰か、負傷していなか!」と叫びました。すると妹が叫んだ。「アハマド(弟)が屋上にいる!」というのです。

 去年10月、ガザ地区北部から私たちの家に避難した人がいたので、父は屋上にテントを建てるようと私に言いました。だから屋上にはテントを建てていたんです。

妹が「アハマドが屋上にいるから、行って無事かどうか見てきて!」と私に叫びました。屋上に上がると、アハマドは横たわっていました。その頭部は砲弾の破片で切断されています。頭から脳が飛び出し、頭部の一部は切り離されていた。アハマドがすでに死んでいました。

 アハマドの遺体から2~3メートル先に、私の妹の夫が倒れていました首に破片を受けていて、その周りにはたくさんの血が流れていました。義弟も死んでいました。

 その横に北部からの避難民5人が負傷していました。その1人は重症でした。他の4人は軽傷です。重症者は命を救うために手術が必要でした。

 私は大声で、近所の人たちに助けを求めました。その時、私の携帯電話もインターネットも使えず、病院に電話をして、救急車を呼ぶこともできなかったんです。それで私は通りに出て叫びました。隣人たちに救急車を捜してもらいました。

 20分ほどして、やっと救急車を見つけることができました。私の家の避難者が病院までは裸足で走って行きました。彼が「家でたくさんの人が死にかけているから、すぐに救急車を回してくれ」と懇願したんです。デイルバラ町にある「アルアクサ殉教者病院」で、私の家から1.5~2キロほど距離にあります。

 救急車が到着したとき、屋上は血の海になっていました。あたかも「屠殺場」のようでした。私は負傷者たちを救急車で運んでもらうことにした。弟や義弟は屋上に残しました。彼らはすでに死んでいたし、まだ生きている人たちを救うためにです。彼らは血を流しているから、救いたいと思ったのです。だから負傷者を全員、病院へ運びました。

 5人を1台の救急車に詰め込む状態を想像できますか。5分ほどしてもう一台の救急車が来たので、すでに死んだ弟と義弟を運んでもらいました。私も彼らと同じ車に乗って病院へ行きました。しかし病院には十分な医療設備もなく、まったく治療はできませんでした。すべての医者は多忙で、集中治療室の横で残っている医療器具を使って手術をしていました。

私は医者に「私が運んできた負傷者たちや遺体に何をしてくれないんですか!」と叫びました。するとスタッフが来て、白い布を私に渡しました。私はその布で、弟と義弟の遺体を包みました。その後、スタッフが「もう墓地に運んでいい」と言うのです。「病院では何もできない。墓地に運んで埋葬してください。病院には遺体のための場所はないから」と。

 私の弟アハマドは独身で、26歳でした。義弟はモハマド。私の姉と結婚し、2人の子どもがいました。1男1女で息子はハサン、5歳。娘はジュリーは3歳です。

子どもの遺体の前で茫然とする母親(撮影・ガザ市民)
子どもの遺体の前で茫然とする母親(撮影・ガザ市民)

 弟たち2人の遺体は同じ墓に葬りました。墓には2人の遺体分のスペースがなかったのです。

2人を埋葬した後に家に戻ると、家を砲撃した戦車が家からさらに200~300メートルまで近づいていました。玄関から入るのは危険だったので、私はまるで泥棒のように壁を乗り越えて家の中に入りました。戦車からの銃撃を避けるためです。

 家の中に入ると皆が泣いていました。私は悲嘆にくれる両親や妹たちを懸命に慰めました。父たちはは「すぐに家を出なければ!そうしなければモハマドやアハマドのように全員が殺される。すぐに家を出よう!」と言いうのです。

すぐに荷物をまとめ、衣類や毛布、食料をもって、家を出ました。私の家に避難していた家族はすでに家を出ていたので、残っているのは私の家族だけでした。15分ほどで荷物をまとめ、UNRWAからもらった父のための糖尿病の薬も荷物に詰め込みました。そして壁を越えて家を出ました。玄関から出るのは危険でできなかったからです。

【ラファへの逃避行】

 私たちは1キロ半ほど歩きました。その後やっと、車をみつけ、運転手に「ラファへ連れていってくれ」と頼みました。すると運転手は「ラファまで行かないが、途中までならいいよ。デイルバラの海岸沿いの道路まで乗せるから、そこからラファ行きの車に乗り替えればいいよ。子どもがたくさんいるし、とても寒いくてたいへんだろうから」と言ってくれました。

 海岸道路まで乗せてもらうと、その道路でトラックを見つけました。その運転手に「ラファまで乗せていってほしい」と頼むと、その運転手は「いいけど、1人当たり30シェケルが必要だ」と言うのです。

 現在、車の燃料がとても高いんです。1リットルのガソリンが90シェケルもする。27ドルです。燃料がイスラエル側から入ってこないために、エジプトのトンネルから密輸しています。だから交通機関がとても高いのです。私の家族は13人です。荷物代を含めてラファまでの代金として400シェケル(121ドル)を払いました。

ラファのテント村(撮影・ガザ住民)
ラファのテント村(撮影・ガザ住民)

 ラファに着いたのは夕方の5時か6時でした。夜の始まりの時間でした。その夜は眠れませんでした。寝る場所がなかったんです。道の端で座って、子どもたちを腕の中に抱き、その夜を過ごしました。1人の子は私の腕の中で、2番目の子は妻の腕の中で、3番目は私の父の腕の中で寝ました。亡くなった義弟の子2人は、他の大人の腕や道路で寝ました。

 朝になると、私は道を歩き回り、周囲の人びとに、「どうやってテントを建てることができるのか」を聞いて回りました。彼らから「テントの素材、長い棒、またプラスチィックなどが必要で、それらすべてを手に入れるために1400シェケル(424ドル)が必要だ」というのです。しかしそれだけの金がないから、屋根の部分に毛布を使うことにしました。その上に雨から守るためにビニールを被せました。

 そのテントを建てて、その中で料理を作り、そこで生活を始めました。そのテントで1月1日から昨日、1月25日まで、つまり25日間を過ごしました。

 テント生活の最後の2日間、ラファにいる私たちの所から、ハンユニス方向から爆発音が聞こえました。イスラエル軍の戦車がだんだん近づいてくる音も聞えました。ハンユニス市の南部で戦闘が始まったんです。

 1月24日、私たちのテントのある地域の周囲の4人が殺されました。それは我々に対して「ここを立ち去れ!」というメッセージだろうと思いました。

 そんな時、デイルバラからやってきた人に会いました。彼から「イスラエル軍の戦車がデイルバラ地区などガザ地区中部から撤退している」と聞いたのです。「マガジやヌセイラートの難民キャンプなどからも撤退し、今はデイルバラ町も安全は場所となったので戻れる」と言うのです。

 父は、「ハンユニスに戦闘がだんだん我々のところに迫っている。明日にでも、また戦車がやってきて、この地区を攻撃するかもしれない。だからデイルバラの家に戻ろう」と言い出しました。私たち家族は話し合いました。その案に反対する者も、賛成する者もいました。とりわけ妻や妹は反対でした。

「どうして戻るの?突然、また戦車がやってきて、攻撃するかもしれないのに」と言うのです。しかし大多数は帰る案に賛同しました。すでに1カ月近くテント暮らしをしていました。狭いテントに13人です。も寒く、冬で、いつも雨が降っている。結局、私たちは家に戻ると決めました。

 テントを撤去し、それをこの家に持ち帰ことにしました。もし戦争がずっと続いたら他の場所に避難しなければならなくなるかもしれない。その時には、このテントがまた必要になります。だからそれを持ち帰り、今家の中にある。潜在的な危機の時にいつでもまた持ち出せるように、家の中に保管するにしました。(続く)

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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