Yahoo!ニュース

福島からの証言・9(後半)

土井敏邦ジャーナリスト

祐也

(鴨下祐也/撮影・土井敏邦)
(鴨下祐也/撮影・土井敏邦)

【鴨下祐也/2014年6月収録/当時・45歳】

〈概略〉いわき市の福島高専の教員だった鴨下祐也さんは、原発事故直後、妻と2人の息子と共に東京に避難した。しかし学校が授業再開を決め、鴨下さんは独り、いわき市に戻った。放射能の危険性を訴える鴨下さんは学校内で孤立。ストレスの多い職場、毎週、東京の家族の元に通う生活に心身ともに疲弊した。高速道路での車の横転事故、痩せて髪が抜けてくる夫に妻は、「生きてくれればいい。お金はどうなってもいいから、仕事を辞めて!」と懇願した。1年半後、鴨下さんは仕事を辞め、東京の家族と合流した。

【断たれた野菜作りの夢】

(Q・ここでは仕事は続けられないと決断したきっかけは?)

 何か特別なきっかけがあったわけではないけど、諸々のことが積み重なっていきました。やはり体調が一番大きかったと思います。辞職したのは2012年10月1日です。結局、震災から1年半仕事を続けたことになります。

 このままずるずるいるのもよくないし、家族がバラバラというのもよくないと思って

いました。

(Q・何が一番大切だと思いましたか?)

 家族の避難生活をできるだけ安定させたいと思いました。避難を続けていくことが結構たいへんなことになってしまうかもしれないとわかっていました。避難の必要性を説くことは、ある程度の専門的な知識などがないと主張しにくいので、そういう役目が自分にあるのかなと考えました。

(Q・自分のライフワークを捨てることになるし、経済的な安定を失うことになる、その葛藤はなかったですか?)

 学校のスタンスは、「放射能の危険性はない」というものでした。だから中途半端に仕事を続けるのはよくないという考えもありました。自分の信条を曲げたくなかったこともあります。

 除染は夢の技術ではありません。森の除染は、自然破壊をすることになります。森林の表土を剥ぎ取ることは、結果的には無理だと思います。原発事故でこれだけ技術が大失敗したのに、除染は技術でカバーできるかのような夢をまた売り込むのかと思いました。

(Q・辞めた時の周りの反応は?)

 以前から職場でいろいろ言われていました。測定した数値を示すと、「測り方が間違っている」とか、「いい加減な数値を出すな」とか言われていました。

(Q・東京へ避難してからの仕事は?)

 非常勤講師として日体大で教えながら、父の事業を引き継ぎました。

(Q・あの事故で失ったものは何ですか?)

 いわきの自然が素晴らしかったから、いわきに家を買って、死ぬまでそこで暮らそうと思っていました。その自然を汚されてしまいました。山菜狩りと、キノコ狩りと、潮干狩りが安心してできるようになったら、帰れると期待しています。ただ、いつになったらできるのか見通しが立ちません。

 息子たちも、いわきで覚えた自然の楽しみが大好きでした。あさりを採るための道具も自作したんです。潮干狩りグッズも用意していました。家の庭にタラノキも植えました。

 しかしどれも汚染がひどくて、とても安心して食べれません。結果的にそこには住めない状況にされてしまいました。

 外は汚染されていても、家の中は大丈夫だというイメージがありますが、しかし外のセシウムが風と共に家の中に入ってきます。掃除してもセシウムが出てきてしまいます。昨日、床掃除したシートからセシウムが出ていないとは考えられません。ずっと外から家の中に入り続けています。人が暮らす環境ではありません。

(Q・この事故によって価値観、将来への展望、家族観はどう変りましたか?)

 事故前はおいしい野菜を作ることで、独立しようと考えていて、実用的な技術を開発したいと考えていました。実際、十分に実用的ではないかというレベルまで達していたんです。実用化のために農地を借りる約束までしていたんです。もう契約していてもおかしくないようなタイミングだったんです。

 その技術で、いわきのビジネスプラン・コンテストで一等になりました。実用化できるまでに準備をしていたんです。いわきの農地を借りようと計画していたんです。屋上緑化」を視野に置いた野菜生産だったので、東京でも実用化できるレベルでした。それが全然違う状況になってしまいました。いま「ここで安心して野菜が作れるのか」と問われてたら、自信が持てません。東京でも安心できません。

(鴨下祐也氏提供の資料より)
(鴨下祐也氏提供の資料より)

(鴨下祐也氏提供の資料より)
(鴨下祐也氏提供の資料より)

 私にとってライフワークにしようと思っていた野菜作りができなくなったのは大きいです。また、自然の中で子どもを育てたかったのですが、それもできなくなりました。

【“避難”の正当性】

(Q・家族と離れて暮らし、何が辛かったですか?)

 一つは子どもが育っていく様子が飛び飛びにしか見れないということです。「自分や息子らに何かがあったとしたら、きっと後悔する」と思いました。母子避難でそういうことにはならなかったけど、いっしょにいない時間が長くなれば、それっきりになってしまう時間も大きいということで、それは避けたいと思いました。

(Q・これから何を支えに生きていきますか?)

 この原発事故の被害を知ってもらうこと、それを記録に残してもらうことです。今は正しく検証も評価もされていません。わからなくされてしまっています。この時点で正しい評価はできないけど、時が経って、いろいろなことが明らかになってきた時にちゃんと検証ができるように、機会があるたびに発言し記録に残してもらうべきです。また避難している人が避難し続けられるように、その必要性を広く理解してもらうことです。そういうことが、科学的なバックグラウンドがある私の役目だと思っています。

(Q・何に対して一番怒りを感じますか?)

 いろいろありすぎて。一番というと、身近なところで、この避難の必要性がほとんど認識されていないということです。空間線量で見てしまうと、「被ばくは少ない」となりかねないですが、放射線物質の面密度、つまり1平方メートル当たり4万ベクレルを越えると、いわゆる「放射線管理区域(注・被ばくから身を守るために立ち入りを制限した、原子力施設内の特別の区域)」です。いわき市の場合でもかなり広い範囲、特に家レベルでは、濃縮しているところがそこら中にあります。つまり4万ベクレル/以上のところです。

 明らかに「放射線管理区域」に相当する場所に、子どもが暮らしています。その管理区域には子どもは入ってはいけないのです。大人でも入る時は、マスクをし、防護服を着なければなりません。しかし実際は、そこで防護もなしに普通に暮らさせてしまっています。行政はその危険性を公に指摘していません。こういう状況だからこそ、“避難”には正当性があると私は考えています。害のあるなしは置いておいても。それを「害がないから大丈夫」みたいにされていることが腹だたしいんです。それによって“避難”が続けられなくなってしまいます。

 こちらが気を許すと入ってきてしまう。「帰れるでしょう」「本当は帰れるかも。みんな帰っているし」という空気が広がっていきます。科学的なバックグラウンドがないと、ぐらついてしまいます。

(鴨下祐也/撮影・土井敏邦)
(鴨下祐也/撮影・土井敏邦)

(Q・金がほしいから、補償が入ってくるから、そう言っているんでしょ?と言われることはありませんか?)

 私たちは「自主避難者」なので、補償は出ていません。厳密に言うと、子どもたちには「一時金」が出ていますが、私の高速道路のガソリン代でなくなってしまいます。私は車すら失ってしまいました。避難に伴う出費の増加分すら全然出ていないという状況です。むしろ避難生活にお金がかかっていす。ですから、私たちが主張しているように、無償の避難住宅を長期間提供してもらいたいのです。「無償」でないと、もう帰るしかなくなってしまう。でも「そんなに汚染しているところには帰れない」という前提でいくと、もう路頭に迷うしかないという状況に追い詰められています。今も「住宅補償」の期限は1年しか延びていない状況で、3年先は見通せない状況です。

(Q・具体的に、「これは許せない」という怒りを感じることはありますか?)

 まず、これだけの事故を起こしているのに、東京電力に家宅捜査が入っていないことです。また、それまで「安全だ」と発言していた責任ある立場の人たちが、今になって、「こんなに汚染していたとは知らなかった」「あの時は詳細がわからなかったから、こう言うしかなかった」と言い逃れをします。ほんとうに無責任です。そのために、どれだけの人が被ばくをしたことか。

 もう一つ、いわき市では震災とは関係なく、一切、日程を延期せず、小中学校の授業を始めました。そのためにはどれだけ多くの子どもが被ばくしたことか。その学校で子どもたちが最初にやったことは掃き掃除による「除染」なのです。子どもたちが除染しているんですよ。息子の学校に行って状況を説明しました。「ホコリが汚染しているので、教員がしてあげてください」と。校長はすぐに教員に指示してやってくれました。

(Q・今の活動は自分の役割ですか?)

 私が代表を務めている「ひなん生活者をまもる会」は母子避難の人が多いです。子どもを守るために避難しているので、表に出て発言することは親が子どもを守れなくなる危険性が大きいんです。自分の子どもはリスクに晒される危険性はありますが、科学的なバックグラウンドを含めて発言をしてきてしまっているので、今さら隠してしようがないだろうと思って、私は外向けの発言をする役割を担っています。

 原発事故が起きて実感していることは、他の事故と比べてわかりにくいことです。ある程度の専門知識がないと、危険か安全かの話もできません。この核汚染は一般市民が監視できるものではありません。だから私みたいな者が発言していかないといけないんです。

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

土井敏邦の最近の記事