Yahoo!ニュース

福島からの証言・7

土井敏邦ジャーナリスト

(佐藤八郎さん/撮影・土井敏邦)
(佐藤八郎さん/撮影・土井敏邦)

【佐藤八郎】(2014年10月収録/飯舘村出身)

〈概略〉

長年、飯舘村の村議会議員を務めてきた佐藤八郎さんは、原発事故が奪った村の人間関係、郷土芸能、お祭り、生活様式など、金銭に代えられないものを取り返さないと“人間の復興”はありえないと訴える。当時の村長の「2年で帰れる」という根拠のない言葉に振り回されて気落ちする住民。怒った佐藤さんは村長選挙にも立候補した。かつての村の生活のような人間らしい生活こそが、“人間の復興”だと言う。

【奪われた飯舘村のよさ】

 飯舘村は寒いし、貧乏だし、何もあるわけではない。「飯舘村の町並みはどこですか?」と聞かれる。みんなイメージするのは、ある一定の商店街があると思っている。しかし飯舘村は飯樋と草野で町並みは終わり。「町に入りました。はい終わり」です。

 私が暮らす深谷地区の60軒ほどの集落だけど、私が行くと、酒好きだと知っているから、出す人はいっぱいいました。「ここで長く飲めるのか」「今日は遠慮する日か」とわかって飲んで歩いているんです。「ここは一杯ご馳走になって泊まって、朝4時とか5時に起きて帰ろう」とか。そういう人としての交流、自分が安らぐ場所、そういう憩いの場が暮らしの中にあったんです。私だけではなく、みんながです。

 どんな人間関係だったのか。小さな村だけど顔の見える、声も届くみんなで助け合ってお金も使わなくていられる生活をどうやっていたのか。そういうことを知りたい人がいっぱいいるはずです。人間が忘れてきたものがまだ残っていました。

 「日本で一番美しい村」に選ばれたのは自然の美しさだけではありません。その生活、人間の「までい」(丁寧な)な付き合い方、人の触れ合いの仕方、その自治体作り、地域作りとか、暮らし方と飯舘村全体が作り上げてきた歴史とか、ヨーロッパの村のように協働と共同が合わさって、しっかりと根付いていることなどが素晴らしいと認められたんです。

 本来、人間として大切だったものが飯舘村にあったのではないか、それを全国に教えることがいっぱいあるのではないかと思います。

 原発事故の以前のような村になる可能性は全くないです。前みたいな農業では通用しなくなる。だったら新しい産業構造を作り、新しい村作りを考えなければならなくなります。昔は「自然豊か、緑豊か」「人間的にも我慢強いし、助け合う気持ちも強いし、みんなで頼りあっている人情は強かった」けど、この2年半ですべてが奪われてしまいました。

 すべての権利を奪っておいて、「家賃免除は1年延長し、医療費は当分無料で、高速も無料にしますから」と国は言います。「サークルの集い、郷土芸能やった仲間たちが、お祭りのたびに交流してやってきた。そういう金の損失として出てこない部分はどうしてくれるんだ?」と訊くと、何の補償もない。それらを全て奪っておいて、「損失した部分、本来お金になっていた部分は出しましょう」というのです。人間として認めていないんですよ。

(飯舘村/撮影・土井敏邦)
(飯舘村/撮影・土井敏邦)

 村民がいちばん喪失感を持っているのは“暮らし”です。当たり前にあった暮らし、「うまいものを作ったから食べて」と、お互いもらったり、あげたりする暮らし。手芸のうまい人が隣のあんちゃんのために縫う。村ではお金を使わなくても、楽しく仲良く暮らせました。それは今の都市部にない暮らし方で、そんな昔の暮らし方を今までしてきました。それを全部奪われて、みんな疲れているんです。

【村長への不信感】

 菅野典雄村長が村民を帰そうとするのは、基本的には「村」という自治体の存続のためだと思います。自分が村長になって21年あまり。その間の村づくりがなくなることが耐え難いし、なくしてはならないと考えているんでしょう。「自分が作り上げてきた。だから元通りに戻りたい」という思いです。それは間違っていることではないとは思いますが。

 避難直後に村長は、「2年で帰れる」という発言をしたけど、今になって、「それは根拠がなく、自分の思いだ」と言っています。自分の思いで村民の人生を振り回してきたということになる。そういう時だからこそ、震災前まで村民みんなの意見や声を反映し、顔の見える、手の届く設計づくりをやってきたことを発揮すべきです。いろいろな層の人を集めて、きちんと確認しながら、足元を固めながら進めるべきだったんです。

 それなのに、自分自身の思いを公言し、「2年で帰れる」とか、「放射能は浴びても影響ない」と言うのです。本来、自分たちがやってきたものと違うものをやっておいて、「自分の思いだった」で済まされるでしょうか。

 村民は「2年したら、戻れるんだ」「2年したら、またああいうあの人と酒飲んだりできる」と思ってみんな我慢しました。ところがその2年が「私の思いで言っただけ」と村長に言われて、みな「何ふざけているんだ!」と切れたんです。

 村起こしに関わった人ほど村に対する思いは強いです。その人たちの思いをきちんと結集せず、なるべく自分から遠ざけてきました。それが今になって集落の崩壊になっているし、帰れないという状態を生み出しているんです。村長自身も自分がやったことの影響がわからないでいます。だから矛盾したことがいっぱいあるんです。

 菅野村長は「放射線災害の世界的なモデル地域に」なんて馬鹿なことを平気で言っています。私たちの権利を無視した発言です。村長は自分がやっていることがわからないでいます。

「私たちが奪われたもの、失ったものは何だろう」ときちんと分析しながら、それをどうやって取り返していくのかが大事です。その目標をなくされ、振り回されて、「世界モデルになる」なんて勝手なことを言われても、村民は「お前のモルモットか?」と思いになります。そういう逃げ方をしている限り、村長は、本物の被害者から完全に離れてしまい、被害者の代表にはなれません。村長は“被害者の代表者”になっていません。

【“人間の復興”を】

 私たちは特別の要求をしているわけではありません。元に戻せるのなら戻してほしい。でもそれができないのなら、憲法に保障された権利や暮らしを保障するのは当り前です。「住むこともだめですよ。そこで働くこともだめですよ。山のものを取って加工したり、郷土文化をやったりすることもだめですよと。守っていた神様、観音様や自然も、ここではやれないんですよ」と言われたわけですから。

 東電や国に交渉に行った時に言ったんです。

 「私たちは好きでこんな目にあっているわけではないんです。あなたたちは私たちから何を奪ったと思うんですか?私たちは人間としていろいろな権利を持っていますよね。東京の人も沖縄の人も神奈川の人も持っているでしょ?原発事故で故郷を追われた人は何を奪われたと思いますか?」

でも東電も政府も答えてはくれません。だから言ったんです。

 「教育権、労働権もあるはずです。避難した先でもちゃんと生かしてください。私らはお金がほしいなんて言っているんじゃない。放射性物質がある限り、戻れないんだから。除染でその放射性物質をなくすことは、加害者であるあなた方が、被害者の私たちが納得いくまでやるのは当たり前です」。

 なぜ私たちが『避難者人生』を歩まなければならないんですか?「避難者」であるうちは保障があるからいい。その後は「難民」になります。新しい人生を見つけて歩まなければ仕方がありません。

 どこで暮らしても、人間として、同じ国民として自立して生きるというのがスタートです。それがなければ、“人間の復興”ではないんです。橋とか道路を新しく作ったりすればいいというものではない。私たちは機械でも施設でもないんです。「自然災害にあった者」と、「人間そのものが被害を受けた者」とはちがいます。私たちは今、あたかも施設や機械が壊れたような扱いをされています。私たちに必要なのは、人間としての、権利の復興ですよ。

 “人間の復興”とは、自分が住みたい住居があること、周りに付き合える人たちがいること、そういう生活に戻さなければならないんです。

 国や村が、最初は村民を距離で分けて、その次は放射線量の高さで分け、さらに補償を1回で一括して払うか分割払いにするかで分断し、今度はすぐに帰れるところ、そうでないところで分けることで分断している。連帯し団結しないようにしているんだと思います。

(佐藤八郎さん/撮影・土井敏邦)
(佐藤八郎さん/撮影・土井敏邦)

 「自立して歩きたい」と思う人ほど早い決断をしました。決断の早かった人は賠償金をもらい、人間らしい生活を送っています。「明日が不安」「見通しの立たない」という生活をしていません。自立しているから、補償などをもらえるだけもらい、家族を持ち子育てをし、お年よりの面倒を見て、普通に淡々と歩いています。

 ところが多くの人は、「村長が2年と言ったから、帰れるだろう。少なくとも3年で」というふうに、フラフラ3年来てしまった。

 子どもの学校の問題、高校までのことを考えれば、中途半端なことをやっているよりは、きちんとした場所に定住して、子どもを成長させたいと思うでしょう。

 飯舘村でなくても、自分の生き方を求めて、自分の生活の場、居住地を早く持つこと、スタートすることを一貫して進めてきました。「村を出ろ」とはいえないけど、(放射能の半減期が)20年、30年というのであれば、飯舘村がある程度、安全が確保されてから、戻るか戻らないか、その時決断すればいいんです。今すべき決断は、人間として自立の道をスタートすることです。

 そのスタートをせずに、仮設住宅に安住したり、村の除染などを見守たりしていると、よけい疲れてしまいます。

 私たちは放射能の専門知識もない。この原発事故で村民は「ミリシーベルト」など初めて知ったのだから。そんな人たちが放射能について意見が違ってもいい。問題は、人間として権利を生かして自由に生きていますか。すべて束縛されて、「避難」という人生を歩いていませんか。だから「人間らしく早くスタートしなさい」と言うんです。

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

土井敏邦の最近の記事