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福島からの証言・6

土井敏邦ジャーナリスト

(橋本希和さん/撮影・土井敏邦)
(橋本希和さん/撮影・土井敏邦)

【橋本希和】(2014年12月、福岡市で収録/郡山出身)

〈概要〉

 橋本あきさんの一人娘の希和さんは、生まれて間もない長男を守るために、「大阪より西に避難を」という母親の助言で、福岡へ避難を決意した。郡山の会社に勤めていた夫を説得して家族3人での避難だった。福岡で仕事をみつけたが、慣れない土地で友人もできず、うつ状態に。郡山に帰りたいという夫と、子どもを守るために残りたい希和さんは、離婚を決意した。

【避難先でのすれ違いと離婚】

 3月11日には、母と私と子ども、それに伯母もいて、談笑していました。子どもはすやすや眠っていて、母は伯母を送る前にちょうど夕飯の支度しようとしていました。

 突然、叔母の携帯がブーブー鳴りました。「緊急地震速報」という表示が出ていました。「なんだろう?」と思っていたら、自分の携帯も鳴りました。その直後に、母が「地震だ!ストーブ消して!」叫びました。私は近くにあった石油ストーブをバッと消しました。その直後、もうグワグワっと揺れたんです。咄嗟に子ども庇いました。抱きかかえることもできませんでした。母は座布団を私たちの上にかけて、「家が崩れ落ちるんじゃないか」と思いました。まだブラウン管のテレビだったんですけど、それが思いっきりガガガってずれました。

 なんとか家は崩れずに済んで、ちょっと揺れが収まったときに庭に飛び出しました。さっきまで晴れててぽかぽかしてたのに、急に雪が降ってきたんです。電線が波打っていました。まるで映画のシーンのようでした。

 家はいつ崩れるか分からないから、中に戻るのは怖いので、母の小さな軽自動車に4人で入りました。でも車の中でも揺れを感じて、「うわー!」と叫んでいました。

電気は大丈夫でしたから、母は米が炊けるうちと炊きました。ミルク用のお湯もわかしました。

 夕方になって寒くなってきました。父が帰ってきて、家の中を掃除してくれました。夜は家の中で布団を敷きました。電気だけはかろうじてずっと通っていて、テレビも見れました。炬燵も入れました。しかし水道とガスはだめでした。ガスは比較的早くに復旧したんですけど、水道が一週間弱ぐらい断水しました。飲み水は母が以前に買っていたので、そのペットボトルの水を使ってお茶を飲んだりしてました。

 テレビはつけっぱなしで、夜は眠れませんでした。「ちょっと体休めようかな」って思っても、グラグラと揺れがくれば、体起こして子どもを庇う。ジャンバーは着っぱなしで、枕元に靴を置いて、いつでも外に出られるような態勢でした。

(Q・放射能が危ないって感じるってことありましたか?)

 原発が爆発したのはテレビで知って、そのときは現実なのか夢なのかと思いました。

「危ないな」って感じ始めたのは、次第に地震も収まってきて、普段の生活に戻ってきたころです。「洗濯物は外に干していいですよ」という報道がされてきたころですかね。「出かけるときはマスクして、肌の露出を避けて」「帰宅したら、着たものすべてゴミ袋に入れて、シャワー浴びて」とか、あれほど言ってたのに、1ヵ月も経たたないうちに、みんなマスクはしていませんでした。「それでいいの?」「もう大丈夫なの?」と疑いました。放射能は目に見えない分、疑っていいんじゃないかと思ったんです。

 母の影響も少なからずあるとは思います。海外に住む叔母が、「国内では大丈夫だって言っているかもしれないけど、海外からから見ると日本は危ないから、とにかく子どもと2人だけでもいいから逃げてきて!」と言うんです。「ああ、危険なのかな」と思いました。

(長男と福岡市で母子避難する橋本希和さん/撮影・土井敏邦
(長男と福岡市で母子避難する橋本希和さん/撮影・土井敏邦

 「郡山を出なければ」と思ったきっかけは、2011年10月から1ヵ月間、オーストラリアの叔母のところに「保養」(注・放射能の不安を抱える人びとが、居住地から一時的に距離をとり、放射能に関する不安から解放される時間を確保して心身の疲れを癒そうとする行動)に行ったことです。その時、現地では、何も心配せずに子どもを外に遊びに行かせたり、靴を履かせて歩かせたり、ハイハイさせたりできました。震災前は郡山でも当たり前だったのに、震災後はそうではなくなっていることに改めて気づいたんです。そのとき、「郡山では、子どもを安心して外に出せない中では生活できないな」と思ったのが大きなきっかけでした。

 母は決して強制はせず、「なるべくなら行った方がいいんじゃないか」と背中押すよぐらいでした。でも母がいなかったら、「避難はしなかったかな」とは思います。母の勧めが 一番、大きいとは思います。「保養」についての説明会も母と行って、どういうところに保養場所があるかも知りました。各地で支援してくださっている方が多くいることもわかりました。

 郡山を出る決断したのは、2011年の12月でした。叔母のいるオーストラリアからちょうど帰国して、夫と話し合いましいた。ようやく夫が折れて、そこから、ポン、ポン、ポンと話が決まりました。

 「福島からの避難者のための借り上げ住宅」の期限が12月末でしたが、福岡県庁に電話して「まだ応募できますか?」と尋ねると、まだ大丈夫だというので、12月中旬に福岡まで下見に行って家を決めました。そして1月の中旬に郡山を出ました。

 震災直後に、「叔母からオーストラリアに逃げてって言われている」と話をしたとき、夫は「飛行機の中でも放射能飛んでるんだから」と言うので、「これはもう、たぶん話にならないな」と思いました。だからオーストラリアへ「保養」に行く時は、夫に告げませんでした。現地から「いまオーストラリアに来ている」と手紙を書きましたが。

 帰してすぐ夫と話し合うとき、もう離婚届も提出されるんじゃないかと思って、ハンコを持っていきました。

 (子どもを避難させることで)夫を説得しようとするとき、目にも見えない放射能について一から説明しなきゃいけないのかと考えると、自分にはできない。だったらもう離婚したほうが楽だと思いました。

 結局、夫は私に折れて、一緒に福岡に来ました。仕事もなんとか見つかりました。電気工事の仕事です。二人とも郡山を離れたことがなかったので、私は地域に馴染むことと子どもを育てることで精一杯でした。

(橋本希和さん/撮影・土井敏邦)
(橋本希和さん/撮影・土井敏邦)

 夫は、仕事は職場の人ととも仲よくしてもらっていて、順調かなって思っていたんですけど。やっぱり、言葉のちょっとした違いだったのかな。また友だちもできなかった。仕事してて、友達作るっていうのは難しいと言っていました。

 夫は仕事、仕事、仕事。一方、私は育児に注意が行ってしまって、夫のサポートができなかったんです。単純に、話をする機会が少なくなりました。話し合いの時間が持てなかったです。話し合うことが大事だと思ったのですが、それができなかったのが、今となれば、一番大きかったのかなって思います。

 私も働こうと思ったんですけど、子どもが小さいので、子ども預けてまで働きたくなかったんです。いろんな面で夫を追い込んだかたちになりました。自分が働かなかったことと、子どもにばかり目がいってしまったということですかね。

 夫は元々、福岡に来たくて来たわけじゃなかったんです。「私が折れなかったから、付いて来た」くらいの感覚だったと思います。だから「自分は福島に残してきたものが多すぎる」とか言う。私は「帰りたいんだったら、帰ったら」と言い返しました。

夫は病院で「軽いうつ病」だって言われたらしいんです。

「離婚の覚悟」「生活の不安」ですか?とりあえず、母に事情を話すと、「なんとかするから」と言ってくれ、すぐに援助してもらったので、経済的なことでは不安はなかったです。

 これまで母に頼りっぱなしだったので、そこはなんとかなるかなと思いました。母も「そのくらい養う力はあるから」と言ってくれたので、「とことん甘えちゃえ」と思ったんです。子どももまだ小さかったので、父親がいなくなるっていうことに対しての抵抗感はなかったです。

 「もう別れよう」という決断をしたのは8月だったので、福岡での3人の暮らしは半年とちょっとです。別れることに、意外と悩まなかったですね。いろいろ悩んだことはありましたけど、「楽になった」と思いました。もちろん、子どもを独りでみるのは大変なことだし、辛いときもありましたが。楽しく福岡で生活しています。

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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