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「シルワン―侵蝕される東エルサレム―」・6〈シルワンの歴史〉

土井敏邦ジャーナリスト

数千年もシルワン周辺の住民の命を支えてきたシルワン・プール。この水がシルワンの豊かな野菜園を育んできた。エルサレムの歴史的な遺跡として、今も観光客が絶えない。(撮影・土井敏邦)
数千年もシルワン周辺の住民の命を支えてきたシルワン・プール。この水がシルワンの豊かな野菜園を育んできた。エルサレムの歴史的な遺跡として、今も観光客が絶えない。(撮影・土井敏邦)

【1967年占領以前のシルワン】

 「これがシルワンの池です。数千年間 地域の人々はこの水を使って暮らしていました。シルワンの人びとは、この水を頼りに暮らしてきました。エルサレム唯一の水源だったのです」

 歴史的な遺跡「シルワン・プール」の近くで土産物店を営むイブラヒム・シアムが私を案内しながら説明した。

 「この辺りの人びとは大きな庭を持っていました。野菜、トウモロコシ、果物など全てこの水で栽培していたのです。この水はエルサレムの人びとの“生命”でした。二千年前はもっと大きな池だったそうです」

シルワン・プールの歴史を説明するイブラヒム・シアム(撮影・土井敏邦)
シルワン・プールの歴史を説明するイブラヒム・シアム(撮影・土井敏邦)

 イブラヒムは池の奥のトンネルを指差し、さらに説明を続けた。

 「このトンネルは全長530メートル。紀元前2000年、カナン時代のものです。この山の向こう側に水を引くために作られた水路です。

 祖父が言っていました。昔、水が来なくなると、シルワンの人びとは下りて来て、祈ったり歌ったりして水が通るのを待ったそうです。そうして水が来たら、喜び、飲んだり、庭の植物にあげたりする。ここシルワンの池が彼らの生命の泉だったのです。柱はビザンツ時代のものです。イエスが盲目の男を癒す奇蹟を起こしたここに教会を建てました。紀元後400年です」

 祖父や父から伝え聞いたシルワンの昔の様子をイブラヒムは語った。

 「シルワンはパレスチナで最も美しい村の一つでした。人口が多く、1967年以前で少なくとも3万人から4万人。パレスチナ有数の大きな村で、泉など、歴史的にも有名です。

 シルワンのルーツは4千年前のカナン時代に遡ります。農業で自給自足していました。作っていたのは、キャベツ、トマト、じゃがいも、玉ねぎなどあらゆる種類の野菜です。シルワンの住民は皆、この水を頼りに生きていました。私の祖父、父、他の親戚や隣人たちも庭を持っていて、各家庭が毎日順番に池の水を使うことになっていました。この一帯は『ブスターン(庭)』という名の広大な庭でした。イチジク、ざくろ、アーモンド、桑の木と、木の下に種々の野菜がありました」

少年時代のシルワンの生活を語るイブラヒム(撮影・土井敏邦)
少年時代のシルワンの生活を語るイブラヒム(撮影・土井敏邦)

 「シルワンの人びとの暮らしはとても素朴でした。隣人たちは家族のようでした。私が小学生の時、近所の子どもたちと一緒に遊び、登校しました。女性たちが一緒にご飯を作り、数家族が集まって食べることもありました。パンを焼く窯があり、母は毎朝、4時に焼いていました。非常に原始的ですが、素晴らしい窯です。母がパンを焼き、午前6時か7時に朝食をいただきます。チーズ、パン、オリーブ油、オリーブの実、トマトなど。それを食べて学校へ行きました。シンプルな生活でした。人同士のつながりが強く仲良く生活していました」

 理髪店を営むユーセフ・カライーンは、イスラエルによる占領以前のシルワンの様子をこう語った。

 「ブスターンにはあらゆる種類の野菜が生産されていました。ほうれん草、玉ねぎ、にんにく、パセリ、いちじく・・・。野菜をカゴに入れて市場まで持って行き、売っていました。旧市街のヘブロン門(ヤッファ門)の近くラッハーミーン市場のところです。一人の女性が数十キロもの野菜を入れたカゴを頭に載せる、まだ舗装のない道をずんずん登って野菜を売りに行っていたんです」

理髪店を営むユーセフ・カライーンも、占領前のシルワンの様子を記憶している。(撮影・土井敏邦)
理髪店を営むユーセフ・カライーンも、占領前のシルワンの様子を記憶している。(撮影・土井敏邦)

「男たちが働いていたのは建設現場や鍛冶屋か機械工、それに私のような床屋です。農業で生計を立てる人はほんの一部でした。農業をしていたのは女性で、男性は建設業の仕事に出る人たちが多かったのです。

 外で勉強して 医者や弁護士、エンジニアになる人たちもいましたが、今ほど人数は多くありませんでした。 パレスチナ人は教育を受けていました。湾岸諸国の人たちはパレスチナ人の教師に習っています」

 「大学はヨルダン大学とエルサレムのアル・クッズ大学がありましたが、優秀な人はカイロなど外国の大学、エジプトやイラクの大学に進学しました。卒業したら、多くは戻って来ましたが、中には行った先で、仕事を見つける人もいました」

 土産物店主のイブラヒムも男性の進路について、

 「高校卒業後は、多くが大学進学希望で、大学はヨルダン、エジプト、シリア、レバノンやモロッコ、アルジェリア、欧米などに進学しました。エンジニア、医師、大学教授、学校の先生が大勢います。シルワン出身の医師は、少なくとも250人います。エンジニアは500~600人、教師も数百人います」と言う。

 そのイブラヒムに「 1967年以前、シルワンにユダヤ人は住んでいたのか」と訊くと、「ユダヤ人は一人もいません。イエメン系のユダヤ人がいたのは、1948年の戦争(第一次戦争)前で、その戦争のとき、彼らはイスラエルへ移って行きました。だから1967年前は、シルワンにはユダヤ人は一人もいませんでした」と答えた。

【イスラエル側の主張との食い違い】

 一方、エルサレム市長アドバイザーのベン・アブラハムは「シルワンは長年、人が住んでいませんでした」と私に語った。

「シルワンには1967年以前は殆ど人は住んでいなかった」と主張するエルサレム市長アドバイザーのベン・アブラハム。(撮影・土井敏邦)
「シルワンには1967年以前は殆ど人は住んでいなかった」と主張するエルサレム市長アドバイザーのベン・アブラハム。(撮影・土井敏邦)

 「大部分は国立公園で、空地、緑地でした。旧市街の神殿つまり『ハラム・シャリーフ』に来る巡礼者が泊まる場所でした。ここ10年から15年で出てきた問題は、緑地に違法に建設する人びとが増えてきたことです。違法に建てられた家を『合法化』するのは難しいです。

 ほとんどの住民は元々シルワン出身ではありません。1967年(第三次中東戦争で全エルサレムがイスラエルの支配下になった)以降に、エルサレムに来たパレスチナ人がほとんどです。ヘブロンなどからイスラエル支配下のエルサレムに移るのは魅力的でした。70~80年代にパレスチナの都市から大きな移住の波がありました。彼らは見つけた土地に、違法に家を建設したのです」

 しかし先の理髪店主、ユーセフはこう反発する。

 「まったくの大嘘です。シルワンは過密なので、住民はむしろ他の地域に出て行っています。ラマラやアイザリヤなど周辺に土地を買うのです。ここでは建て増しが許されないから、家族の人数が増えたら他の地域に家を買うしかありません。1967年以降に 外からやって来たのはユダヤ人です」

「1967年以降に 外からやって来たのはパレスチナ人ではなく、ユダヤ人だ」と主張するユーセフ。(撮影・土井敏邦)
「1967年以降に 外からやって来たのはパレスチナ人ではなく、ユダヤ人だ」と主張するユーセフ。(撮影・土井敏邦)

 イブラヒムも「それは事実ではありません」と否定した。

 「シルワンの人びとはここに4千年のルーツがあります。何千ドナムもの土地を持っており、マアレ・アドゥミーム入植地(東エルサレム近郊のユダヤ人入植地)もシルワンの人びとの土地です。すべて私たちの土地で、そこに入植地が建てられました。シルワンはパレスチナ有数の大きな村だったのです。何千人もが素晴らしい暮らしをしていました。観光客も来ていましたし、商売も好調でした」

【1967年占領後のシルワン】

 イスラエル当局によるシルワンでの家屋破壊と闘う運動のリーダー、ファフリ・アブディアブは、1967年のイスラエルによる占領後、シルワンの変化をこう語る。

「占領後、シルワン住民の文化、経済など生活の全てがイスラエルに支配された」と語るファフリ・アブディアブ。(撮影・土井敏邦)
「占領後、シルワン住民の文化、経済など生活の全てがイスラエルに支配された」と語るファフリ・アブディアブ。(撮影・土井敏邦)

 「変化は占領によってもたらされました。他の土地を追い出された住民がシルワンに集まり、人口が増えました。占領は私たちの生活を変えました。イスラエル産の農作物や食料品が入って来ると、その品質や安さに対抗できず、シルワンの農業は廃れました。そして多くの職人たちが、身を立てていた技術や職能を失いました。西エルサレム(1967以前からのイスラエル人地区)での清掃、飲食、小売りなどの単純労働で簡単に収入が得られるようになりました」

 「卵など 家庭で日々使うものさえイスラエルから買うようになりました。家畜を持っていた人も、それで糧を得ようとせずに、イスラエル製の乳製品や食品を買うようになり、私たちはイスラエル製品に依存する、ただの消費者になりました。人口が増え イスラエル側にしか仕事がないので収入源を握られ、生活の全てをイスラエルに支配されることになりました。 給料がストップすれば飢えます。自給自足できないので、完全に従属せざるをえません」

 「文化的にも自分たちと違うものが、強いられるようになりました。かつての自立と伝統の生活からイスラエルの方法、文化、製品への依存に変わっていきました。着るものも変わりました。以前は服も靴も作っていたのですが」

 「私たちはイスラエル側つまり西エルサレムの経済に取り込まれました。イスラエルはパレスチナ人労働者に金銭報酬を与え、経済を奪ったのです。シルワンなど東エルサレムの経済は死にました。

 食品生産も商業も観光業も立場は逆転し 私たちは事業主から、イスラエル人のための労働者に変わりました。文化、経済を支配され、生活の全てを支配されました。人口が増えたのに家の建設が禁じられ、自分たちで都市計画を作れないので、無秩序な町になります。許可証なしで家を建設して、罰金を取られ、破壊される無秩序で汚い町になったのです。

 イスラエルの街は古い地区でも整備されていますが、ここはイスラエル当局の放置、無計画の状態です。 イスラエルに生活の全てを握られています。私たちは独立を求めていますが、独立したら、生きていけません。ゆりかごから墓場まで面倒を見られているからです」

 「占領前には一体感があったシルワンの人びとに、1967年の“占領”が不信感、疑念を植え付けました」と語るのは、モナ・アブカーテルだ。

「第一次インティファーダ時代、シルワンは『小さなガザ』と呼ばれるほど、抵抗運動が激しかった」と語るモナ・アブカーテル。(撮影・土井敏邦)
「第一次インティファーダ時代、シルワンは『小さなガザ』と呼ばれるほど、抵抗運動が激しかった」と語るモナ・アブカーテル。(撮影・土井敏邦)

 「すべてが変わってしまいました。以前はもっと安全だったのに。第1次インティファーダの始まった1987年頃が変わり目で、その頃から問題が増えました。人々はもはや占領下の状況を受け入れられなかったのです。イスラエルに対する暴力やデモが起こりました。逮捕者も急増しました。当時、シルワンは『小さなガザ』と呼ばれていました。イスラエルはシルワンの若者を制御できなかったのです。1987年の初めは、住民は一致団結していました。しかし2000年9月に始まった第2次インティファーダでは同じ一体感がありませんでした」

 「第1次インティファーダで覚えているのは 1990年に、私は生後15日の娘を抱えてデモに行ったことです。老若男女が協力して互いを守っていました。誰かが逮捕されそうだったら、反対側に回って兵士を殴るというふうにです。 しかし2000年以降、私は人を家に入れられませんでした。内通者かもしれないと疑ったからです」

(続く)

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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