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ルポ「ヨルダン川西岸」(第一部「ヨルダン渓谷」)・4

土井敏邦ジャーナリスト
住居をイスラエル軍に破壊された遊牧民、アブ・サケル(筆者撮影/以下同様)

 【ルポ「ヨルダン川西岸」】

 〈第一部「ヨルダン渓谷」〉・4

【オスロ合意】

 1993年9月、イスラエルのラビン首相とパレスチナ側のヤセル・アラファトPLO代表が「暫定自治政府原則の宣言」いわゆる「オスロ合意」に調印した。これによってパレスチナ人は暫定期間が終わる5年後には、ヨルダン川西岸とガザ地区、それに東エルサレムに「パレスチナ国家」が誕生すると期待した。

 しかし、5年後に「パレスチナ国家」はできず、ヨルダン渓谷は、行政権も警察権もイスラエル側が掌握する、実質的な「占領地」である「C地区」に組み込まれた。

 いったいヨルダン渓谷の住民たちはこの「オスロ合意」をどうとらえているのだろうか。

 イブラヒム・デーク(ナツメヤシ農家)は「よい面もありましたが、私たちの権利は与えられませんでした」と答えた。

イブラヒム・デーク
イブラヒム・デーク

 「よい面は 自分たちで行政を担当できるようになったこと、都市部では安全になったこと、これは良いことです。経済の面でも良い影響があったと言えます。

 しかし負の影響も多いです。私はオスロ合意は完全に実施されず、ほぼ終わったと思っています。イスラエルの西岸からの撤退は完遂されず、パレスチナ国家樹立に基づく二国家協力関係もありません。国家がなければ、オスロ合意は無意味だったということです。パレスチナ自治政府とイスラエルが治安や経済面で合意し、両者の利益を守るはずだったのですが、私たちの権利は少しも手に入れられていません。パレスチナ国家の独立と自由なしではオスロ合意もなかったのと同じです」

 国境沿いの土地を接収されたサーレフ・スレイマンは「オスロ合意はパレスチナ人がとった最悪の行動で、パレスチナ人の尊厳ある生活をする権利を奪いました」と言い切った。

サーレフ・スレイマン
サーレフ・スレイマン

 「まず合意に署名し、それから交渉を始めたからです。例えば、殺人事件が起きたら、まず賠償金を得てから和解します。私たちは和解してから交渉し始めたのです。1967年の100年前の状況に後退しました。オスロ合意がなければ、今よりよりよい生活ができていたはずです」

 遊牧民、アブ・サケルもまたオスロ合意が、ヨルダン渓谷の状況を悪化させたと言った。

アブ・サケル
アブ・サケル

 「あの合意で、『イスラエルは占領者でなく、平和を望む国』と見られるようになりました。しかしオスロ合意は、私たちが水を使い、商売をし、自由に移動する権利を奪い、尊厳ある生活をする権利を奪いました」

【土地の意味】

 インタビューしたヨルダン渓谷の住民に「あなたにとって“土地”とは何ですか?」と問うた。

 アウジャ町の農民、サラハ・フレジャートは言った。

サラハ・フレジャート
サラハ・フレジャート

 「土地は、ここに居続ける私たちの不屈の忍耐、尊厳の印です。私たちは土地を死守すべきです。パレスチナの土地をイスラエルが占拠しないようにです。力で奪うなら、どうぞ。しかし些末な理由や不法な取引でイスラエル側に土地を売ることはありえません。彼らは土地を『買う』ことで、パレスチナ人の追放を正当化したいのです」

 ナツメヤシ農民、イブラヒム・デークは「土地は祖国です」と答えた。

 「パレスチナ人は、土地を解放し祖国の礎とするためなら、自分や子供や全財産をも犠牲にできると言います。私もパレスチナ人としてこの土地への帰属意識があります。これは私たちの権利です。私たちは平和に暮らすため、パレスチナの分割を受け入れました。

苦渋の選択でした。 イスラエルになった地中海岸も、私たちの土地ですから。それでも私たちは流血を止め、平和に暮らしたかったのです。しかし残念ながら、イスラエルはパレスチナ人が土地のために犠牲を払うよう導いているのです」(了)

ヨルダン渓谷の遊牧民
ヨルダン渓谷の遊牧民

 (注・写真はすべて筆者撮影)

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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