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背番号11のトルネードは野茂英雄…いや、ドラフト候補の山科颯太郎(九州文化学園→兵庫BS)だ

土井麻由実フリーアナウンサー、フリーライター
「令和のトルネード」、背番号11番の山科颯太郎

■令和のトルネード

 マウンド上で左足を上げるや、くるりと上半身をひねって打者に背番号11を見せる。トルネード投法の野茂英雄か!?

 いや、違う。山科颯太郎だ。九州文化学園高から独立リーグ・兵庫ブルーサンダーズ(来季から神戸三田ブレイバーズ)に入団し、1年目を終えたドラフト候補の右腕だ。

高校のチームメイトが勧めてくれたトルネード投法
高校のチームメイトが勧めてくれたトルネード投法

 「トルネード(竜巻)投法」とは野茂英雄氏の投球フォームのことで、1990年に所属球団の近鉄バファローズがネーミングを募集し、この名がつけられた。

 野茂投手が野球界を席巻していた当時、この世に影も形もなかった山科投手は、高校時代のチームメイトに「体が小さいから全体で投げないかん。回転したほうが絶対に球が速くなるよ」とアドバイスされたとき、トルネードの元祖である「野茂英雄」の名前も存在も知らなかったという。

 後にYouTubeを見て「『似てんなぁ』と思った」と笑う。体格はまったく似ても似つかないが…。

 軸がしっかりしていないと難しいフォームだが、もともと“気味”だったという山科投手は「すぐにできた。意外に投げやすくて」と、すんなりこのフォームを手に入れた。高校2年の春だった。以来、トルネード投法で現在に至る。

黒田庄ふれあいスタジアムにて
黒田庄ふれあいスタジアムにて

 「一番気をつけているのは右手。回転したら後ろから出やすいし、体に隠れることは絶対に無理なんで。出すぎちゃうと(握りが)見えやすくなる。それをどう見せないようにするかっていうのを、今も考えている。腕が外側に入るのを意識的に小さくするようにしている」。

 さらにこう続ける。

 「腰を速く回さないと腕が遅れちゃう。腕が遅れると右バッターの顔面に(ボールが)いくんで。あと、体の開きも早くなったりするんで、そこも意識している」。

 全身を使い、腰の負担も大きいであろう投法だが、これが山科投手のボールの勢いを生んでいるのだ。

黒田庄ふれあいスタジアムにて
黒田庄ふれあいスタジアムにて

■ダルビッシュ有投手に憧れて…

 山科投手が野球を始めたのは小学2年のときだ。それまではお父さんがしていたサッカーに夢中になり、お母さんがしていた空手(お母さんはなんと黒帯!)を習い、野球はおじいちゃんとキャッチボールをする程度だった。

 しかしテレビ中継されていたWBCダルビッシュ有投手を見た途端、「めっちゃかっこいい」と虜になり、すぐに友だちと野球チーム「サンボーイズ」に入った。

 小4から念願のピッチャーで試合に出るようになり、地元の中学で野球部に入った。硬式に進むか迷いもしなかったのは「硬式という存在を知らなかった(笑)」からだ。

 ショートも兼務しながらのピッチャーだったが、「打ち取ったり三振取ったときは楽しくて。まぁ、それは今も変わんないけど(笑)」と満喫していた。

顔も変わっていなさそう
顔も変わっていなさそう

■トレーニングと体重の増加で球速アップ

 九州文化学園高に進み、1年秋からベンチ入りした。入学当時の球速は122キロだったが、冬季のトレーニングで130キロ近くまで伸びた。

 2年夏は、選手間投票でベンチ外となった。背番号ごとに立候補者を募り、そこで部員たちが投票して決めるというやり方で、夏のメンバーだけはこの方式が採られるのだ。

 「1番、10番、11番に立候補した。いけると思ったから、めっちゃ悔しかった」。

 その屈辱からか奮起し、秋からエースになった。そこでさらに高みを目指して自己研鑽に努め、球速は134キロまで上がってきた。

花園セントラルスタジアムにて
花園セントラルスタジアムにて

 冬場のトレーニングを経て高3の春を迎えると、最初の練習試合で球速が爆上がりしていた。なんと143キロだった。

 「投げたとき、指先とかの感覚が全然違っていた。バッターの反応も違ってて、試合後に143出てたって聞いて、あぁやっぱりな、みたいな」。

 冬季のピッチングはシャドーだけだった。それより専らトレーニングに力を入れた。いろいろ教えてくれたのはトルネード投法を勧めてくれたチームメイトだ。後藤祐太朗さんと遼介さんの双子の彼らはタバタ式トレーニングなど、仕入れた情報を惜しげもなく伝授してくれた。

矢印左が後藤祐太朗さん、矢印中が後藤遼介さん、矢印右が山科颯太郎投手(写真提供:山科颯太郎)
矢印左が後藤祐太朗さん、矢印中が後藤遼介さん、矢印右が山科颯太郎投手(写真提供:山科颯太郎)

 さらに努力したのは増量だ。高校入学時は48キロだった体重を、卒業するころには72キロにまでアップさせた。

 「1日に白ご飯を1.2升以上食っていた。朝飯で3合、授業の休み時間ごとにちょっとずつ食って昼飯までに3合、昼飯で3合、練習中にまた3合…練習後に晩ごはん。わけわからんくらい食っていた」。

 ときには水で流し込むこともあったそうだが、そうした増量とトレーニングが実り、1試合ごとに1キロずつ、球速が上がっていった。そして強豪・柳ヶ浦高と練習試合をしたときに146キロを計測し、三振を18コ奪って完投した。

南港球場にて
南港球場にて

■「野茂英雄二世」と、ドラフト候補にはなったが…

 この試合で山科投手は一躍注目を浴びることとなった。「野茂英雄二世」「トルネードの山科」と騒がれ、そこで初めて「野茂英雄」の名前と存在を知ったという。

 やがてスカウトが足繁く訪れるようになり、「そのあたりからプロに行きたい、頑張ったら行けるかも、って真剣に考えるようになった」と述懐する。

 そうなるとモチベーションも上がり、トレーニングにもより熱が入った。ピッチングにも自信がみなぎるようになってきた。

高校時代はトルネードで注目を集めた
高校時代はトルネードで注目を集めた

 春の県大会で準優勝、NHK杯では全7試合55回を1人で投げ抜き(4完封)、31イニング連続無失点の記録を作るなどの活躍でチームをベスト4へ導いた。だが夏は長崎県大会ベスト8で、甲子園には一度も出場できなかった。

 秋に監督の勧めでオリックス・バファローズの入団テストを受けた。一次、二次、最終と進み、調査書も届いて期待に胸を高鳴らせたが、残念ながら指名はなかった。

 しかしプロ入りの情熱は消えることなく、独立リーグから目指すことにした。

兵庫ブルーサンダーズ・橋本大祐監督の施術を受ける
兵庫ブルーサンダーズ・橋本大祐監督の施術を受ける

■苦しんだシーズン

 親元から遠く離れた地での挑戦が始まった。

 ブルーサンダーズでリリーフを任されることになったのは、短いイニングでの爆発力を期待されてのことだ。デビューは上々だった。6月13日の開幕戦で1回を無失点。

 これまでずっと先発をしてきた山科投手にとって、中継ぎは「肩を作るのが難しかった」と振り返る。「先発だとタイミングがわかるけど、中継ぎはいつ作るかわかんなくて、『今ぐらいかなぁ』って自分で考えて20球くらいで作っていた」。

 6月、7月はまったく点を許さず、防御率は0.00。順調に思えた矢先のことだ。落とし穴が待っていた。

6月13日のデビュー戦
6月13日のデビュー戦

 「8月初めくらいかな。練習日にブルペンで投げてて、急におかしくなって…」。

 それまでコントロールには自信があった。しかし突然、投げたボールが隣のレーンの小山一樹捕手の元に飛んでいった。

 「それが2球くらいあって、そこから投げるのが怖くなって…。どんどんどんどんコントロールが悪くなっていって、ストライクが入らなくなって、どんどんどんどん怖くなっていった」。

 恐怖心が山科投手を支配した。投げれば投げるほど、何がなんだがわからなくなった。改善の兆しが見えかけたこともあったが、また悪化した。

 「キャッチボールで普通に投げてるつもりが、相手のところにいかないんです、ボールが」。

ブルペンにて
ブルペンにて

 フォームもいろいろ試した。YouTubeを見たりなど、試行錯誤を繰り返した。

 「でも、考えるのがあまりよくなくて、考えないように考えないようにってしても、ボールがいかないからやっぱり考えちゃう」。

 チームメイトも「自信もっていけよ」などと声をかけてくれたが、なかなかそうはできなかった。

ピンチでマウンドに集まる
ピンチでマウンドに集まる

 とうとうベンチ入りメンバーからも外れ、9月は1試合も登板しなかった。試合中はチームの手伝いをし、苦しい日々を過ごした。

 そして10月28日の最終戦、64日ぶりに実戦登板した。「下半身重視で、なるべく考えないように」して1回を2安打、1三振、2四球、2失点で終えた。

 「バッターに投げるのが久しぶりすぎて、最初は感覚がわかんなくて…。そこで2点取られたけど、あとは戻ってきて三振も取れたんで。まぁ、いい感じには直ってきてるなと自分では思っている」。

 その後もかなり改善し、ブルペンで手応えを感じるようになった。

 「まだ前のようにはいかないけど…やっぱ自分の中で怖さがあるんで。自信をつけないとと思う」。もうひと息だ。

手応えが出てきたことに笑みがこぼれる
手応えが出てきたことに笑みがこぼれる

 このオフは「体を作っている。ピッチングを再開したときにレベルアップしているように、今は鍛えている」と、自ら追い込んでいる。

 「重いものを持ってパワーアップして、体重も増やして、シーズン近くなったら瞬発系とかで絞っていって速い筋肉をつけたい。今は限界の重さを上げている」。

 来季の開幕に向けて、計画的にバンプアップしているところだ。現在76キロの体重も80キロ近くまでは増やすつもりだ。

先輩たちもいろいろ教えてくれる
先輩たちもいろいろ教えてくれる

■魅力は奪三振

 魅せたいのは三振奪取能力だ。

 高校時代から「1試合平均10~11コ三振を取っていた。三振を取ってたら、ずっと投げたいって思える、どんなに疲れてても」と、アウトの取り方の中でも三振にこだわってきた。

 「三振を取りたいところでギアを上げて三振が取れるというところ」をスカウトにも見てもらいたいという。

ダイナミックなフォーム
ダイナミックなフォーム

 それにはさらなるコントロールと、ストレートを生かす変化球のレベルを上げたいと語る。持ち球は最速148キロのストレート縦のスライダーチェンジアップ、今年独学で覚えたカットボール、さらにはカーブを操る。

 「ストライクを取るカーブの精度をもっと上げたい。カウント球として使えるように」。

 勝負球にたどり着くまでのカウント球。投球の幅を広げるためにも縦の緩いカーブの完全習得は必須だと考えている。

 カウントさえ整えば、ストレートやスライダーで三振を取れる力はあると自信を見せる。

チームメイトと談笑する
チームメイトと談笑する

■1軍のローテーションで活躍するという青写真

 いつまでも独立リーグでやるつもりはない。

 関西独立リーグでは給料が出ない。シーズン中もアルバイトをしなければならない。といっても、時間的にそんなに稼げるものでもない。

 このオフは「シーズンに備えて貯めておく」と、地元のガソリンスタンドでアルバイトに精を出している。

 さらには「お年玉もできる限り回収して…(笑)」と、未成年である強みを最大限に生かす。もちろん、プロ入りして恩返しすることはマストである。

プロに行くだけではなく、プロで活躍することを誓う
プロに行くだけではなく、プロで活躍することを誓う

 「めちゃくちゃ頑張って、来年必ずプロに行きます!」

 プロに行くだけではない。入って活躍するところまでしっかりイメージできている。

 「1軍でローテーションに入れるピッチャーになる!」

 鼻息荒く、意気込みを語る。

 今までの野球人生の中で「一番うまくいかなかった年。不甲斐なかった」という2020年が間もなく終わる。

 2021年、令和のトルネード・山科颯太郎は大きく飛躍して、プロ入り切符をその手に掴む。

来年はドラフト指名を!!
来年はドラフト指名を!!

(表記のない写真の撮影はすべて筆者)

山科颯太郎*プロフィール】

生年月日:2002年1月31日

身長/体重:172cm/76kg

投打:右右

ポジション:投手

出身校:九州文化学園高

出身地:長崎県

山科颯太郎*今季成績】

10試合 12.1回 58人 245球 12安打 1本塁打 11三振 9四球 0死球 失点8 自責6 防御率4.38

フリーアナウンサー、フリーライター

CS放送「GAORA」「スカイA」の阪神タイガース野球中継番組「Tigersーai」で、ベンチリポーターとして携わったゲームは1000試合近く。2005年の阪神優勝時にはビールかけインタビューも!イベントやパーティーでのプロ野球選手、OBとのトークショーは数100本。サンケイスポーツで阪神タイガース関連のコラム「SMILE♡TIGERS」を連載中。かつては阪神タイガースの公式ホームページや公式携帯サイト、阪神電鉄の機関紙でも執筆。マイクでペンで、硬軟織り交ぜた熱い熱い情報を伝えています!!

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