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名球会から独立リーグ監督になった駒田徳広 監督退任の真相と高知に遺すもの

阿佐智ベースボールジャーナリスト
後期ホーム開幕戦を雨で流した後、室内練習場で選手を指導する駒田監督

「辞めるって言うてみるもんやな。今日はどんどんお客さんくるわ」

 現役時代のイメージそのままの豪快な笑い声がさほど広くない店内に響く。「辞める辞めるサギやな」と常連客らしき男が軽口を飛ばす。

高知市街中心部にあるファイティングドッグス直営のバー、KOMA'S HOUSE
高知市街中心部にあるファイティングドッグス直営のバー、KOMA'S HOUSE

 高知の中心街の雑居ビルにあるKOMA’S HOUSE。巨人・横浜で一時代を築き、2000安打を放ち名球会入りした往年の大打者、駒田徳広がマスターを務めるバーだ。

 「辞める」というのは、このバーではなく、彼の現在の本業である四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグス(高知FD)の監督のことである。

 2016年に監督に就任。最下位が定位置だったチームを上位に浮上させたものの、優勝は未だにない。今季前期で2位に終わったこともあり、駒田は7月12日に今季限りでの監督退任を発表した。

 バーは、経営の苦しい独立リーグ球団を目の当たりにして、少しでも売り上げが足しになればと自らプロデュースして昨年3月に開店した。店内には、駒田の巨人時代のユニフォームに加え、高知FDの「レジェンド」、角中勝也(2006年在籍)、藤川球児(2015年在籍)、マニー・ラミレス(2017年在籍)のものが飾られている。店内に流れる音楽は、1980年代のアイドル歌謡、ポップス。駒田が私物を提供したものだ。

普段も駒田が店に立つ時は多くの客でにぎわうのだが、取材に訪れた7月14日は退任発表後に初めて駒田が立つこともあり、小さな店内はすぐに満員となった。バーのカウンターに立ちながら、駒田は筆者のインタビューにじっくりと答えてくれた。

高知FDのレジェンドたちのユニフォームが飾られた店内
高知FDのレジェンドたちのユニフォームが飾られた店内

「野球の都」から飛び込んだ独立リーグ

 奈良県出身で巨人、横浜で現役生活を送った駒田と高知はなかなか結び付かない。高知はかつて「キャンプ銀座」だったが、彼がプレーした両球団はここでキャンプを張ったことはない。

 彼を独立リーグの世界にいざなったのは、高知出身の球界のご意見番、江本孟紀だった。「4年前の日本シリーズの時でした。神宮球場だったかな。ラジオの解説をしていたんですが、江本さんの局が隣のブースでね。それで、『お前、コーチか監督にならんか』って。『稼ぎが少なくて困っているのに、そんなとこで野球をやっとったら、嫁はんにもっと怒られる』って言ったんですけどね(笑)」

 4か月後、駒田はユニフォームに袖を通していた。

 独立リーグの環境は、いわゆるプロ野球・NPBのそれとは雲泥の差だ。NPBの現在の1試合あたりの観客動員数は3万人を超える。これに対してアイランドリーグは500人をやっと超える程度。独立リーグ球団の1年の運営費の目安とされる1億円では、NPBの一流選手の年俸も賄えない。

 その中でも、過疎化が進み、観客動員の増加もなかなか見込めない高知をフランチャイズとするこの球団は、農業を手掛けたり、ツーリズムに活路を見出したりとユニークな「多角経営」で生き残りを図っている。高知FDの選手・指導者は、高知市郊外の自治体から提供された寮に住んでいるが、それは名門・巨人出身の駒田とて例外ではない。ビジターゲームの遠征も基本、バスでの日帰りだ。普段練習場として使用しているグラウンドも、野球場というよりは「運動場」に近いものである。

 NPBというある意味恵まれた世界で生きてきた身には、この環境に慣れるのにそれなりの苦労もあったとは思うのだが、駒田は首を横に振る。

高知FD監督の3年半を振り返ってくれた駒田監督
高知FD監督の3年半を振り返ってくれた駒田監督

 「私はね、枕があれば、どこでも寝られるんです。育ちが、ええとこの子だったら、耐えられないかも分からんけれども。私は職業として野球を選んだのです。嫌ならここに来ません。昔、東京に住んでいたとか、億を稼いでいたとかは、関係ない話です。『高知に来てどうですか?』、『楽しくやっています』、もうそれしかないじゃない。それ以上、何かあるんですか。何もないでしょう」

あくまで現実的だった独立リーガーに対するまなざし

 独立リーグの存在じたいは、監督就任以前から知っていたと言う。

 「リーグの初年度(2005年)に声かけてもらって臨時コーチみたいな感じで香川オリーブガイナーズに顔を出したことがあるんですよ。その時は、けっこういい選手がいるじゃないかという印象でしたね」

 独立リーグ創設から15年目。レベルは着実に上がって来たと言われている。しかし、2016年に監督に就任し、現場の土を踏んだ駒田には逆に映った。

 「今はレベルが下がっている状態じゃないですかね。もう(ルートインBCリーグも合わせて)10チーム以上もあって、こっち(四国)に4チームですから。そりゃレベルを保つのも難しいと思います。これから選手を集めるのも大変じゃないかな」

 そういう中、実際に選手たちを目の当たりにして感じたのは、「夢への登竜門」という独立リーグに対するキラキラしたイメージとのギャップであった。

 独立リーグには、「夢をかなえる場所」と「夢をあきらめる場所」という両面があるとよく言われる。毎年、プロ(NPB)入りの夢をかなえられなかった若者が、最後の望みをかけて独立リーグの門を叩くが、実際にその夢をかなえられるのはほんの一握り。それゆえ、球団フロントはセカンドキャリア構築も念頭に入れて選手に接している。

 一方で、指導者の考え方は様々だ。私は別の独立リーグ監督にこの点について話を聞いたことがあるが、その監督は、「私は、彼らがNPBに行けないだろうなんていう気持ちで接することはありません。ここ(独立リーグ)にいるということは何らかの可能性があるからいるのであって、私はその彼らがどうやったら秋のドラフトにかかるのかという目線で彼らを指導します」。

 しかし、駒田の姿勢はそれとは正反対だ。彼は、4年間育ててきた独立リーガーたちが目指すNPBという夢の実現性にはきわめて厳しい考えをもっている。

 「夢をあきらめきれないという、そんなきれいなことじゃないんです。そんな簡単にプロ野球(NPB)になんか、なれるわけないじゃないですか。なれないんです」

 

 駒田の印象では、チームに在籍する30名ほどの選手のうち、本当にNPBを目指してプレーしている選手は、3,4人だと言う。

 「僕自身は、NPBを目指すという子が、もっと多いんじゃないかというふうに思っていました。もちろん、NPBに行きたいという気持ちのある子もいるし、行けたらいいという程度の気持ちの子もいます。それに、自分の力はもう分かっていて、あと何年か野球をやったら思い残すことなく野球を卒業できるって、けじめをつけにきている子もいるし。それはもうバラバラです」

 だから、こうしないとプロへは進めない、NPBに行くにはこうすべきだ、というアプローチを全体にはしなかったと駒田は言う。

 「例えば30人いて、28人NPB入りは無理なのに全員に言うわけないじゃないですか。だから、可能性のある2人に『他の選手とは可能性が違うんだよ』と自覚を促すようにはしました」

4年間を振り返って

 シーズン途中での監督退任発表となってしまったが、その原因はやはりチーム成績だと駒田は言う。

 「いろんなことがあって、なかなか勝てなかった。戦力的にもしんどかったかもしれないですし、采配も悪かったかもしれないです。やっぱりチームというのは、方向性というのがあって、それがあいまいになってきたときに、一枚岩じゃなくなってしまうんですね。それが原因で勝てないというものが大きくなってきたときに、ちょっとしんどいと感じるようになりました」

 それでも、「野球の都」からやってきて高知で過ごした4年間を「本当に楽しかった」と振り返る。

 「もうここではいろいろやらせていただきましたから。バーもそうだし、野球教室で海外も行かせてもらったし。それで野球がおろそかになり気味なところが、一番の難点なんですけれども(笑)」

駒田の監督在任中には、MLBのレジェンド、マニー・ラミレスの入団フィーバーもあった
駒田の監督在任中には、MLBのレジェンド、マニー・ラミレスの入団フィーバーもあった

 高知FDは、高知県やJICA(国際協力機構)との提携の下、海外での野球普及活動や野球を通じた国際交流も行っている。駒田は、その一環で南米・パラグアイやブラジルにも足を運んだ。日系人の多い現地では熱烈な歓迎を受け、現代の日本人より祖国・日本の文化を大切にしている彼らに感銘を受けたと言う。かつての巨人のスター選手は、地球の裏側でも大スターだった。サッカーのイメージが強い両国で駒田の存在が知られていたことに私は驚きを禁じ得なかったが、そのことを口にすると、駒田は声のトーンをあげた。

 「何を言っているんですか。俺、有名やもん(笑)。日本人がいるところには、絶対に野球がありますから。ある程度の歳の人は、やっぱり野球に対しても、非常に興味を持っています」

 シーズン途中での退任発表となったとはいえ、9月8日まで続く後期シーズンも駒田は最後まで指揮を執る。当然有終の美ということは頭の中にあるのだろう。この日、バーに足を運んでいた常連客の間からも、「優勝して退任撤回」の期待も聞かれたが、駒田はこれにも首を振っていた。

「勝負事ですから結果は分かりませんが、今はもう最後の最後まで、頑張り切る、ということですね。でも、退任は退任ですよ。ファンの人が決める問題じゃなく、球団が雇うか、雇わないかの問題ですから。仮に僕が辞めるって言わなかっても、球団が契約しないと言ったらそれまでの世界ですから。そういう意味もあって、今回、チームのバランスからいっても、一つの節目かという判断をしたということです」

 シーズン後については、全くの白紙だと言う。案外、オフシーズンもこのKOMA’S HOUSEでグラス片手に野球談議に花を咲かせているかもしれない。そんな期待をファイティングドッグスのファンは抱いている。

KOMA'S HOUSEの店内には駒田の巨人時代のユニフォームも飾られている
KOMA'S HOUSEの店内には駒田の巨人時代のユニフォームも飾られている

■駒田徳広さんプロフィール

1962年奈良県生まれ。1980年ドラフト2位で桜井商業高校から巨人入団。プロ3年目の1983年に一軍デビューし、初打席を満塁ホームランで飾る。以後、「満塁男」の異名どおりのチャンスに強いバッティングで人気を博す。1993年オフ、FAで横浜ベイスターズに移籍、主力選手として1998年の優勝に貢献、2000年の引退までに2006安打を残した。引退後は、野球解説者として活躍する一方、2005年には楽天イーグルスの打撃コーチに就任している。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを一部負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

(写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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