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「会いたい、話したい」戦争で引き裂かれた婚約者たちの永遠に奪われた未来

荒川和久独身研究家/コラムニスト/マーケティングディレクター
(写真:イメージマート)

戦争で死んでいくのは若者

北京パラリンピックは閉幕したが、ウクライナでの戦争はいまだ終わりの見えない戦いが続いている。戦争の現実をニュース映像の形で目の当たりにする毎日が続く。そこにあるのは、間違いなく多くの人々の死である。人が人を殺すという酷い現実である。

日本人は、1945年に太平洋戦争が終結して以来77年間に渡って戦争を経験していない。太平洋戦争を経験した人たちもその多くが天寿を全うされている。戦争を実体験した人はいなくなっても、戦争がもたらす現実は語り継いでいかなければならない。

太平洋戦争では、正式な史料は残っていないが、戦争によって310万人もの日本人が命を落とした。兵士及び軍関係者が230万人、民間人が80万人と言われる。戦争で死んでしまうのは決して兵士だけではない。そして、軍関係の230万人はおそらくほぼ男性である。しかも、ほとんどが若い男性なのだ。

日中戦争がはじまる前の1935年の男性の年齢別人口と戦争が終結した1945年の人口とを比較してみる。同年齢推移比較のため、1940年時点での年齢ベースのコーホート推移としている。

1935年時点では、年齢別になだらかな線を描いていた分布が、1945年には20歳(つまり1945年も時点では25歳)がボトムとなったいびつな形になっている。明らかに戦争によって人口が減ったのは、1945年時点で20~35歳の若い男たちである。その上の世代も人口は減少しているが、若者に比べれば少ない。

もちろん、これは日本国内の人口であって、減った数がそのまま戦死者ということではない。日中戦争がはじまった1937年、太平洋戦争がはじまった1941年以降、徴兵された若者は中国や東南アジア、太平洋の最前線に送り込まれた。

戦争後、1947年頃には、多くの復員兵が帰国した。そのため、多少若者の人口は戻っているが、それでもおびただしい戦死者は若い男性たちに集中している。

出征したまま還ってこなかった年齢層でもっとも多いのは、終戦時20-24歳の男子である。

当時でも、20-24歳は91%が未婚である。要するに、ほとんどの若者は、未婚のまま戦死していったのだ。恋愛ひとつ経験したことのない子も大勢いたことだろう。一方で、結婚したばかりなのに戦争によって引き裂かれてしまった二人もいる。

利夫さんと智恵子さんのカップルもそのうちの一組である。

戦争に引き裂かれた若い二人の物語

二人が出会ったのは、昭和16年の夏、利夫さんが大学生の頃図書館にて。二人は結婚を強く希望するが、戦争によってその願いは打ち砕かれてしまう。

昭和20年3月に、利夫さんは、東京の智恵子さんの両親を訪ね、二人の結婚の許しをもらう。二人にとってその夜は、結婚が決まったとてもうれしい夜だったことだったろう。3月9日のことである。

利夫さんは、9日の夜は自分の親戚のいる目黒に泊まった。

しかし、日付がかわった3月10日、あの東京大空襲が起きる。米軍の焼夷弾によって東京が焼き尽くされ、11万人以上の死者を出したあの日である。

智恵子さんの無事を心配する利夫さんは、まだ夜が明けないうちに目黒の親戚の家を飛び出し、智恵子さんの実家へと徒歩で向かう。同じ時、利夫さんの身を案じる智恵子さんも、夜明けとともに目黒に向けて歩き出していた。携帯電話もない時代、二人が出会える確率なんてほぼゼロに等しい。

しかし、二人は、途中の大鳥神社のあたりで、偶然にもバッタリと出会えた。なんという奇跡だろうか。

互いの無事を確認して喜び合った二人だが、利夫さんはすぐにも東京を離れないとならない。利夫さんは昭和18年、戦時特例法によって大学を繰り上げ卒業し、陸軍特別操縦見習士官として入隊していた。そして、昭和20年には特攻隊に配属となる。利夫さんは出撃前の特別休暇をもらい、智恵子さんとの婚約を果たしに来たのだ。部隊に戻らないといけない。

二人は、避難する人であふれかえる池袋駅で永遠の別れをする。その一か月後の4月に利夫さんは出撃した。

下記の写真は、あまりにも有名な特攻出撃の写真である。知覧の女子高生が桜の枝を振って出撃を見送るが、この機体に搭乗して出撃しているのが利夫さん(穴澤少尉)である。当時まだ23歳だった。

写真:ロイター/アフロ

遺書に込めた叫び

智恵子さんにあてた利夫さんの遺書が残っている。一部抜粋して原文ままでご紹介する。

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書くことはうんとある。

然しそのどれもが今までのあなたの厚情にお礼を言う言葉以外の何物でもないことを知る。あなたの御両親様,兄様,姉様,妹様,弟様,みんないい人でした。至らぬ自分にかけて下さった御親切,全く月並のお礼の言葉では済みきれぬけれど「ありがたふ御座いました」と,最後の純一なる心底から言って置きます。

今は徒に過去における長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれることと信ずる。然し,それとは別個に婚約をしてあった男性として,散って行く男子として,女性であるあなたに少し言って征きたい。

「あなたの幸せを希ふ以外に何物もない」

「徒に過去の小義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない」

「勇気を持って,過去を忘れ,将来に新活面を見出すこと」

「あなたは,今後の一時一時の現実の中に生きるのだ。穴澤は現実の世界には,もう存在しない」

極めて抽象的に流れたかもしれぬが,将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様,自分勝手な,一方的な言葉ではない積りである。

今更何を言うか,と自分でも考えるが,ちょっぴり慾を言って見たい。

・読みたい本

「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」

・観たい画

ラファエル「聖母子像」、芳崖「悲母観音」

智恵子、会いたい,話したい,無性に。

今後は明るく朗らかに。自分も負けずに,朗らかに笑って征く。

昭20・4・12 利夫

智恵子様

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最後の「会いたい、話したい」という叫びが彼の本音だったろう。

23歳の一人の若者・穴澤利夫さんの辞世の句がこちらである。

「ひとりとぶも ひとりにあらず ふところに きみをいだきて そらゆくわれは」

利夫さんは、智恵子さんの女物の赤いマフラーを巻いて飛び立った。

無念だったろう。会った事もないどこかの爺さんの為政者が勝手に決めた戦争で最前線で戦わされ、犠牲となるのはいつも若者であり、彼らのささやかな幸せを奪い、未来を永遠に奪う。

しかし、未来を奪われた利夫さんが飛び立っていったのは、「愛する人の未来のために」であったことは確かだろう。

※参考文献 渡辺 洋二「彗星夜襲隊―特攻拒否の異色集団」(光人社NF文庫)、水口文乃著「知覧からの手紙」 (新潮文庫)等。

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※記事内グラフの無断転載は固くお断りします。

独身研究家/コラムニスト/マーケティングディレクター

広告会社において、数多くの企業のマーケティング戦略立案やクリエイティブ実務を担当した後、「ソロ経済・文化研究所」を立ち上げ独立。ソロ社会論および非婚化する独身生活者研究の第一人者としてメディアに多数出演。著書に『「居場所がない」人たち』『知らないとヤバい ソロ社会マーケティングの本質』『結婚滅亡』『ソロエコノミーの襲来』『超ソロ社会』『結婚しない男たち』『「一人で生きる」が当たり前になる社会』などがある。

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