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刺身をパックのまま食卓に出すのは、アリかナシか 料理の手抜き論争はなぜ続く?

阿古真理作家・生活史研究家
刺身パックをそのまま食卓に出すか否か――論争には奥の深い問題が潜む。(筆者撮影)

 買ってきた刺身をパックから器に移すべきかどうか、が物議をかもしている。始まりは、読売新聞投稿サイト『発言小町』で1月1日に投稿された記事。読売新聞が2月12日に取り上げ、Yahoo!ニュースでシェアされたうえ、3月1日の『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日)でも話題になった。それは以下のような内容である。

 デパ地下で買ってきた刺身を、「きれいに盛りつけられているから」と30代の妻がパックのまま食卓に出したところ、夫が不機嫌になった。理由を問いただすと、「パックを並べた食卓なんかに、『いただきます』も『ごちそうさま』もいらない」「自分でやるのは嫌だ、結婚した意味がない」とまで言ったという。

 料理の手抜き云々で大きな話題になった、と言えば昨年7月にSNS発で盛り上がった「ポテサラおじさん」論争もある。総菜コーナーでポテトサラダを買おうとした幼児連れの女性を、高齢男性が「母親ならポテトサラダぐらい作ったらどうだ」と批判した場面を目撃者がツイッターで投稿し、女性への共感が集まった話である。

 8月には、冷凍ギョウザを食卓に出した女性が、夫に「手抜きだよ」と言われたことをSNSに投稿し議論を呼ぶ。その話題を取り上げた8月10日放送『スッキリ』(日本テレビ系)で、男性が街頭インタビューでから揚げを手抜きと発言したことが、インターネット上で物議をかもした。

 いったいなぜ、こういった家庭料理に関する話題が、次々と論争を呼ぶのだろうか? 

実は手間がかかるポテサラとギョウザ

 昨年夏の論争は、料理の手間に焦点が集まった。

 ポテトサラダとギョウザは、手間がかかる料理である。ポテトサラダは、ジャガイモを20~30分かけて茹で、マッシャーなどでつぶしたうえ、下準備した他の具材や調味料を加えて混ぜる。時間がかかるし、つぶす労力もかかる。

 ギョウザは、数にもよるが一から作ると小一時間かかる。野菜を切り、肉や調味料などと練り合わせて丸め、一つずつ皮に包んでいかなければならない。手間がかかるので、本場の中国ではもともと、正月などの特別な日に作るものだった。

 から揚げは、揚げる時間はそれほどかからないが、下味をつけてからしばらく置く必要がある。数時間かけて味を染み込ませる人もおり、段取りをきちんとしておかなければならない。そして、揚げた後に油を始末し、コンロの周りに飛び散った油をふき取る作業が発生する。準備と後始末に、手間と時間がかかるのである。

 こうした手間に対する無理解を訴える声が、インターネットなどを介して家事の担い手たちに共有されたのである。

ポテトサラダは、作るのに30分以上かかる手間のかかる料理である。市販品のほうが、隠し味や具材の工夫など、自分にはない発想を楽しめる、という人もいる。(写真:アフロ)
ポテトサラダは、作るのに30分以上かかる手間のかかる料理である。市販品のほうが、隠し味や具材の工夫など、自分にはない発想を楽しめる、という人もいる。(写真:アフロ)

料理を容器から移し替えない理由とは?

 刺身をパックから移し替えるかどうか、から発展した今回の「事件」は、手間にとどまらない深い問題を含んでいる。まず、器に盛りつけるかどうかは、価値観の問題である。

 買ってきた総菜を器に移し替えるべきだ、という声が強かったのは1980年代頃の話。例えば、時短料理で名を馳せた小林カツ代が1981年に刊行した『働く女性のキッチンライフ』に、その記述がある。たまには総菜売り場の料理を利用してもいい、と伝える文脈で「買ってきたものをポンと容器ごと食卓に移しただけというのでは、やはり味気ないですね」と書いている。

 それは、容器から移すことが愛情表現、と受け止められていたからである。仕事を持つ既婚女性が増え始めた当時、「家事に手を抜かない」宣言を夫にさせられたうえで、「働かせてもらった」人が珍しくなかった。出来合いのモノを買うのは望ましくないとされ、「せめて移し替える」ことが、「手抜き」している人の「心遣い」とされたのだ。刺身パックの扱いに不満を抱いた夫は、40年前の社会常識を持っていると言える。

 しかし、時代と共に価値観は変わる。平成には仕事を持つ既婚女性が多数派となり、フルタイムで働く人も増えた。家計の担い手として誇りを持ち始めた彼女たちは変わっていった。

 器に移すかどうかについても、考え方は多様化した。移すことで手料理と同じ扱いにして家族を安心させたい人、移さないことで手料理と区別したい人など、さまざまな考え方がある。

 さらに、刺身については盛りつけ方も料理のうち、という日本料理の考え方がスーパーのものにも反映され、見栄えよく盛りつけられている。移し替えると、せっかくの盛りつけが崩れてしまうかもしれない。だから、投書した女性が、心遣いとして容器ごと出したことは間違っていない。

 そしてもちろん、刺身に限らずパックごと食卓に出す人の中には、移し替えるひと手間とその後汚れた食器を洗うことすらしんどい、と感じる疲れ切った人たちがいる。疲れた妻が食事の支度をしているのにねぎらおうともしない、あるいは手伝おうともしない夫が非難する権利は、本当にあるのだろうか。

妻は無給の家政婦ではない。

 さらに、今回出てきた新しい問題は、「結婚した意味がない」という夫の失言にある。昨年の論争は第三者が家庭の食卓について、手作りの価値か家事の合理化か、を論点とした。しかし、今回は夫婦の関係性にも問題が及んでいる。投稿者が議題として投げかけた夫の失言には、普遍的な問題が含まれている。

 この場合、夫は妻が問いただして初めてこの発言をしている。もし食卓で嫌だと言ってしまえば、妻が「自分で皿に盛りつけ直して」、と言うだろうことを予測したからだ。だから食後に聞かれて、「自分でやるのは嫌だ、結婚した意味がない」と言ったのである。

 妻に向き合ったのはいいが、そこで飛び出した本音が、料理を妻に丸投げしたかったことが結婚の動機、と言ってしまったことは女性たちの反感を買う。

 なぜなら、妻は無給の家政婦ではないからだ。

 昔は確かに、男性が身の回りの世話をしてもらうために結婚することが認められていた。戦前は、戸主が家族の生殺与奪の絶大な権限を持っていた。専業主婦が多かった昭和時代も、経済力という武器を夫は持っていた。立場が弱い妻は、夫のために奉仕するしかなかったのである。

 しかし、平成を通じて女性の地位が上がり、女性に対するそうした扱いが差別だという社会的な了解も広がっていった。それなのに令和の今、こうした発言が男性から飛び出してしまうことは大変残念である。

ささやかな出来事の背後に潜む、差別の根深さ。

 今回、当事者の夫が失言したことで明確になったが、一連の料理の手抜き論争はここ数年の家事論争が土台にある。世界では#Me Too運動で大きな盛り上がりを見せたフェミニズム・ムーブメントが活発で、日本もその渦中にある。テーマの一つが、家事である。

 『AERA』が家事の省力化を記事にし始めたのが、2014年。『あさイチ』(NHK)でも、家事に関するトピックを盛んに取り上げている。2015年に『考えない台所』が刊行され話題を集めた後、家事省力化のノウハウ本が活発に刊行され、やがて他のメディアも話題にするようになった。料理の手抜き論争を朝の情報番組が取り上げるのは、こうした時代風潮が背景にある。

 議論が蓄積される中で、家事を主に担う女性たちの間では、昭和の専業主婦の理想型をめざすのではなく、忙しければ家事は省力化してもいい。省力化は賢いことである。あるいは生き延びるために必要だ、と考える人が増えていった。

 一方、家事論争に関心がない男性たちの中には、相変わらず昭和の専業主婦の理想型に囚われている人たちがいるのだろう。ポテサラを自分で作ることも、ギョウザを手作りすることも、から揚げを作ることも、そして総菜をパックから移し替えることも、昭和の女性たちはやっていた。その中には、仕事を持ちながら「働かせてもらっている」罪悪感から、ブラックな家事と仕事のダブルワークに耐えていた人もいた。

 昭和の専業主婦には、経済的なゆとりを得たうえ、便利になった台所で働く喜びがあった。あるいは、自分の親世代と異なりダブルワークから解放された喜びを抱き、家事に手間をかけていた。おかげで家族は自らの手を煩わすことなく、手の込んだ料理が毎日食卓に並び、清潔で整えられた部屋で暮らす快適さを得ていた。しかし、今は時代が違う。

 例えば、フルタイムで仕事をした後に、一から手の込んだ料理を何品も並べていたら、過労で寝込むかもしれない。そうしたリスクに気づいているからこそ、女性たちは手の抜き方を覚えたのである。

 彼女たちが市販品に手を出す理由は、二つある。一つは、商品のほうが自分の手料理よりおいしいと思っているから。もう一つは、家族が家事に参加せず、大きな負担がかかっているからである。刺身パックの件で腹を立てた夫は、妻だけに負担がかかっている可能性に気づいていない。代わりに第三者の女性たちが怒り、メディアが注目したのである。

 ここ数年の家事論争とフェミニズム・ムーブメントの成果は、こうした問題にメディアが注目するようになったことである。家庭内のあれこれは個人的なプライベートな問題であるが、社会の実情を反映している。そして、家庭内のあれこれをベースに、社会は回っている部分がある。外での仕事と家庭内の家事は、両輪で社会を回しているのだ。

 50年前のウーマン・リブの主張「個人的なことは政治的なこと」が、社会で共有されるようになった。一見ささやかに見える問題に隠れている、長くて重い差別の問題に多くの人が気づき議論が起こるようになった今、ようやく社会の変化は始まったと言える。

作家・生活史研究家

1968年兵庫県生まれ。広告制作会社を経て、1999年より東京に拠点を移し取材・執筆を中心に活動。食を中心にした暮らしの歴史・ジェンダー、写真などをテーマに執筆。主な著書に『家事は大変って気づきましたか?』・『日本外食全史』(共に亜紀書房)、『ラクしておいしい令和のごはん革命』(主婦の友社)、『平成・令和食ブーム総ざらい』(集英社インターナショナル)、『料理は女の義務ですか』・『小林カツ代と栗原はるみ』(共に新潮新書)、『なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか』(NHK出版新書)、『昭和の洋食 平成のカフェ飯』(ちくま文庫)、『母と娘はなぜ対立するのか』(筑摩書房)など。

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