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料理上手はいい嫁候補?ドラマ化で話題のマンガ『作りたい女と食べたい女』から考える「食」の先入観

阿古真理作家・生活史研究家

 女性なら、家族や恋人のために料理するのが当たり前。少食や偏食は矯正するべきだ――そんな先入観に囚われている男女は多いのではないだろうか? そして、その先入観に当てはまらない自分や家族に、複雑な思いを抱いている人も……。

 フランス料理をきっかけにグルメブームが始まってから40年、食に焦点を当てるテレビや映画などが世の中にあふれるようになって十数年。食に関する書籍も次々に刊行される。食について文化が成熟してきたためか、フェミニズム・ムーブメントが活発なためか、最近、女性と料理を当然のように結びつけることに対し、違和感を訴える作品が出てきた。その一つが、電子版を含む1・2巻の累計発行部数が35万部を超えたマンガ『作りたい女と食べたい女』(ゆざきさかおみ、KADOKAWA)である。11月15日に  3巻が発売され、11月29日からNHK で比嘉愛未が主演するドラマの放送も始まった。この話題作を通して、改めて食に関する「当たり前」を考えてみたい。

「作りたい女」と「食べたい女」がいれば

「作りたくない女」と「食べたくない女」もいる。

 まずストーリーを紹介しよう。主人公の野本ユキは、地方から出てきた30代の会社員。大量に料理することに憧れている料理好きだが、自身は1人暮らしで少食だ。

 職場で手製の弁当を広げていると、同僚の男性が近づいてきて「いいお母さんになる」などと興奮して語られた。野本は「自分のために好きでやってるもんを『全部男のため』に回収されるの つれ~な…」とモヤモヤを抱え、ストレス解消のために大量の台湾料理の牛腩飯を作ってしまう。

 困った野本は、少し前に知り合った同じマンションに住む、体格がよくて大量に食べる春日十々子に、思い切って食べて欲しいと頼んで引き受けてもらう。目の前でバクバク食べる春日の姿に対し、野本は初めて誰かに「全身で『おいしい』って食べてもらえ」たと感動する。以来、2人はときどき一緒に料理を楽しむようになる。

 野本は母親から、電話で結婚をせっつかれ辟易している。一方、春日は家父長制の色彩が濃い家庭で育った。父や弟より食事を少なくされ、家事手伝いも娘の自分だけがやらされる、という扱いに疑問を抱いてきた。深夜にお腹がすき、台所でこっそり夜食を食べるのがつらかったことから、家を出て大量に食べるようになったのである。

 野本は、作りたい欲求を満たしてくれる春日との出会いを喜び、春日は食べたい欲求を受け入れてくれる人に出会えて感動している。2人は互いを恋愛対象として意識し始めるのだが、それまで同性愛者と自覚していなかったらしい2人の心の動きが、ていねいに描かれる。

 3巻では、さらに興味深いキャラクターが2人登場する。1人目は、春日の隣に住む、食べることが苦手な南雲世奈。2人目は、自分で料理はしないと決めている矢子可菜芽。野本はSNSで知り合った矢子に、春日への思いを打ち明ける。矢子は恋愛感情を持たないアセクシュアルの自覚がある。南雲は、家族に食べるよう強要された過去がある。

 4人は、こだわりのレトルトカレーをいろいろ試してみたい、と言い出した矢子の部屋に集まり、インド料理の食事会を開く。野本はナンを作る。それぞれが「一般的でない」恋愛や食に対する嗜好を持ち、葛藤してきたためか、彼女たちには人を尊重する態度が身についている。矢子と南雲は4人で集まるとすぐ、野本と春日が互いに思い合っていることに気づき2人の幸せを願う。4人が集まる連帯の場は今後、おそらくそれぞれが社会から避難する場、アジールになっていくのだろう。

写真:アフロ
写真:アフロ

「料理上手な女=いい嫁候補」なのか?

 同作から見えてくるのは、食に関する社会的偏見がまだまだ存在していることだ。

 野本は、純粋に料理すること自体を愛している。しかし、同作に出てきた男性の同僚のように、料理上手な女性をすぐに「いい嫁」候補とみなしたがる人は少なくない。

 女性は男性のために生きているわけではないが、なぜか、女性が装うと男性に見せるためと考え、女性が家事をするのも男性のためと考えがちな人がいる。それはもしかすると、男性のために女性が生きさせられてきた歴史と関係があるかもしれない。

 差別の歴史が、「料理が得意な女性=良き妻候補」と短絡的に考える男性を存在させている。まず、それは先入観だと明らかにすることから、私たちは始めなければならない。

 「女性は料理が上手で好きであるべき」とする先入観も、自分のために女性が家事を背負って欲しい男性の願望からきているのではないか。そしてその役割を自ら背負う女性もいて、彼女たちの中には、他の女性に同じ犠牲を求める人たちがいる。そうした「余計なお世話」も同作にはしばしば描かれる。

「適度な量の食事」がプレッシャーになる人も……。

 春日は、外食先でも女性の食べ方に対する先入観に遭遇する。から揚げ定食を頼めば、店の主人が勝手にご飯の量を少なめにする。ギョウザとライスを頼めば、隣席の男性が「餃子には米じゃなくてビールが一番だよ」と話しかける。その都度、春日は彼らと戦い自分の流儀を伝える。しかし、気の弱い人なら彼らに従ってしまうかもしれない。自分の欲求と異なる食べ方をすれば、食事がつまらなくなるのに、関係ない他人が「常識的な食べ方」を強要する。そんな被害に遭った人は、男女に関係なくいるのではないか。

 南雲は、野本たちから自分の少食を受け入れてもらったとき、思わず泣き出してしまう。それまでの人生で、自分の嗜好を受け入れてもらったことがなかったからだ。しかし、南雲の両親がそうだったように、子どもが食べないと保護者が心配するのは自然なことでもある。成長できないかもしれないし、栄養が偏って病気になるかもしれない。拒食症の可能性もある。南雲の悩みは、難しい問いを 私たちに突きつける。

 大人が少食だったり偏食だったりすると、社交上で困る場合もあるし、おせっかいな人から非難される場合もある。食べないことが、料理した人を傷つけることもある。周囲の気持ちはこれまで広く理解されてきたが、食べられない人の気持ちにフォーカスが当たったことはあまりなかったかもしれない。食べられないことはその人の特性であって、作った人や食べる人を否定しているわけではない。しかし、長い歴史の中で食べたくても食べられない人が多かったからか、食べないことは悪と決めつけられがちだ。

 もしかすると、私たちはおせっかいになり過ぎているのかもしれない。昭和のドラマでは、そうしたおせっかいな人が「思いやりのある人」と位置づけられ、愛されキャラになってきた。しかし令和の今、人には多様な嗜好と背景があり、迷惑をかけない限り、周囲も配慮し尊重するべきだという風潮が強くなってきた。そもそも、他人がどのような趣味嗜好を持つかは、迷惑をかけない限り自由なはずだ。関係ない人が干渉すること自体が、余計なお世話なのである。私たちがいかに「あるべき」姿を人に押しつけてきたか、南雲のキャラクターは明らかにする。

 矢子の悩みは、3巻ではまだ示されていない。生い立ちもまだ不明だ。しかし、料理しないことを決めた彼女にも、そうするに至った彼女なりの事情があるのだろう。ヘテロセクシュアルでないキャラクターたちの設定は、もしかすると、こうしたそれぞれの食への「変わった」嗜好と関係があるのかもしれない。

誰もが「自分らしさ」を受け入れてもらうには

 日本人は、画一的な文化を求め過ぎかもしれない。農業社会だった時代は、生きるうえで協調性が不可欠だったことから、逸脱が許されない風潮が強かった。その後訪れた高度経済成長では、農家がサラリーマン家庭へと入れ替わっただけで、誰もが似た生き方で似た価値観を持つと思われ続けた。

 しかし、オイルショック後の1975年以降、人々の生き方は多様になっていく。バブルが崩壊すると、サラリーマン以外の生き方も増える。海外に住む人、海外からやってくる人も増える。障碍者も施設や家に閉じ込めるのではなく、社会に受け入れられるようになっていく。性的指向の多様さも次第に明らかになる。今、私たちは、さまざまな先入観を取り払うべく、葛藤している最中なのかもしれない。

 難しいのは、先入観はある程度、人が生きていくうえで必要なことだ。子どもは成長するにつれ、普通とは何かを周りから学び、そこを基準に自分を整えていく。社会性は社会で共有された常識を前提にしている。例えば誰も信号を守らなければ、信号の意味がなくなり交通事故が増えるように、常識や先入観は必要でもある。一方で、その常識は時代に応じて変化していく。その変化の過程で、従来の常識によって押しつぶされていた人の自然な在り方を、訴えることができるようになる。

 食の嗜好も同じことだ。私たちは、健康管理の必要性もあって、しっかりバランスよく食べること、しかし食べ過ぎないことが望ましい、と教育を受けている。しかし、必ずしも推奨されている食べ方が自分に合っているとは限らない。料理も日々作る習慣があるほうが、健康管理も家計管理もしやすい。特に女性は長らく台所の担い手とされてきたことから、できて当たり前と思われてきた。しかし、どのように食事スタイルを選ぶかも、本当は個人の自由なのである。

 『作りたい女 食べたい女』は、単に食に関する偏見で抑圧された人が、その苦しみを訴える物語ではない。どちらかといえば、惹かれ合った人たちが、互いの趣味嗜好を尊重しながら距離を縮め助け合っていく、心温まる物語だ。自分の先入観とは異なる相手と親しくなろうとするとき、どのように接すればいいのかも教えてくれる。何より、社会の偏見に苦しめられてきた人が、自分らしさを受け入れていい、と納得していく物語だ。食べることを通して、個人の独自性を全力で肯定する作品なのである。

作家・生活史研究家

1968年兵庫県生まれ。広告制作会社を経て、1999年より東京に拠点を移し取材・執筆を中心に活動。食を中心にした暮らしの歴史・ジェンダー、写真などをテーマに執筆。主な著書に『家事は大変って気づきましたか?』・『日本外食全史』(共に亜紀書房)、『ラクしておいしい令和のごはん革命』(主婦の友社)、『平成・令和食ブーム総ざらい』(集英社インターナショナル)、『料理は女の義務ですか』・『小林カツ代と栗原はるみ』(共に新潮新書)、『なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか』(NHK出版新書)、『昭和の洋食 平成のカフェ飯』(ちくま文庫)、『母と娘はなぜ対立するのか』(筑摩書房)など。

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