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旧ソ連圏は全15カ国、中国も全土を巡った。料理研究家・荻野恭子さんはなぜ世界中を旅するのか?

阿古真理作家・生活史研究家
荻野恭子さんの部屋には旅先で買ったお土産や勉強した本がたくさんある。(筆者撮影)

 今や、外国や外国人はすっかり身近になった。何しろ訪日外国人数はここ数年うなぎ登りに増え、2017年には約2,869万人にものぼる。1990年以来、外国へ行く日本人も毎年1,000万人を超え、2018年には約1,895万人あまりと過去最高を記録。日本に住む外国人も、外国に住む日本人も多い。

身近な国や地域が増えたせいか、最近は情報が少ない国や地域への関心も高まっているようだ。それは例えば中央アジア・ウズベキスタンのサマルカンドや、旧ソ連のジョージアなど。テレビや雑誌などで取り上げられ、マンガ『乙嫁語り』の題材にもなっている。

 40年来、そんな地域を中心に家庭料理を学ぶ旅を続けてきた料理研究家が、荻野恭子さんだ。世界各地のレシピと食文化を紹介してきた荻野さんがエッセイ集、『おいしい料理は、すべて旅から教わった』(KADOKAWA)に、自身の旅人生を綴っている。

 荻野さんはこれまでどんな地域に行き、どんな料理と出合ってきたのだろうか。なぜ、世界中を旅して回るのだろうか。その旅人生を知ることは、料理研究家がどのような職業なのかを知ることでもある。今回は、そんな荻野さんへのインタビューを紹介したい。

荻野さんの旅体験とレシピが紹介されたエッセイ集。
荻野さんの旅体験とレシピが紹介されたエッセイ集。

中学時代、初めて出合ったロシア料理の虜に。

 荻野さんがこれまで行った国は60カ国にのぼる。中国は全土、旧ソ連圏は全15カ国を訪ねた。ユーラシア大陸を中心に、アフリカや南米にも足を延ばしている。

 テレビ番組の『兼高かおる世界の旅』(TBS系)や『アップダウンクイズ』(TBS系)を観て、外国への憧れを募らせた少女は、小学校3年生で東京オリンピックを体験。東京・深川に住んでいたので、沿道で旗を持って聖火ランナーを迎え、テレビでも観て「世界中にいろいろな国があって、いろいろな人が活躍しているんだ」と実感した。

外国を実感した最初の料理が、ロシア料理だった。家ではビーフシチューやカレー、コロッケなどの洋食を食べていたが、中学2年生のとき、映画鑑賞会の後に担任教師が連れて行ってくれたロシア料理店で出合ったのは、初めて食べるものばかりだった。

「今にして思えば、牛肉入りトマトスープみたいなボルシチには、定番のビーツも入っていないし、ピロシキには春雨が入っていた。本国のロシア料理とは別物」という荻野さんは、その根拠を次のように説明する。「日本に入ってきたロシア料理は、旧満州のハルビン経由です。土地は中国だけど、町を造ったのはロシア人。その町で日本人がロシア人から習って持ち帰った料理。そのことを3回もハルビンに確認しに行きました」。

 そういう発見はしかし後年のもので、中学生の荻野さんはロシア料理の虜になった。東京のロシア料理店を食べ歩き、レシピ本も入手。しかし、材料表記に「化学調味料」とあったことから「これは本物ではない」と感じる。高度成長期から1970年代頃まで日本では味の素が大流行し、それを使うレシピがたくさんあったのである。

 やがて1980年に朝日新聞社から『週刊朝日百科 世界のたべもの』シリーズが創刊される。毎週届く雑誌で世界各地の食文化ルポを読み、「行くしかない!現地で食べるしかない!」と思い定めたのである。

 

料理を学び、教えた20代。ついにソ連へ。

  「人生をすべて旅に賭けて自分に投資してきた」と話す荻野さん。30歳で結婚したときも、旅をして料理研究を続けることを条件にし、「乳飲み子も母に預けて行っています」。料理を教えてくれる人が見つかるなど、条件が整えばお金を工面し、スケジュールを確保して旅に出る。その資金はすべて自分で稼いできたのである。

 働き始めたのは高校卒業後。父が体調を崩したため、しばらく家業の天ぷら屋を手伝っていた。その後女子栄養大学に進学し、卒業後は外務省に非常勤職員として勤める。荻野さんの人生はいつも、外国と食に彩られている。

 料理には物心ついたときから興味があった。1日中台所にいる祖母にべったりくっついて、味見を楽しみにする食いしん坊だったのだ。おかげで小学校へ上がる頃には、自分のご飯の準備が出来るようになっていた。

 20代になると、料理教室にいくつも通う。陳建民の恵比寿中国料理学院に行き、全日本司厨士協会で、ホテルオークラの小野正吉、帝国ホテルの村上信夫、クィーン・アリスの石鍋裕、オーボンビュータンの河田勝彦など、有名シェフ・パティシエから、フランス料理やフランス菓子を学んだ。懐石料理の辻留の料理教室にも通う。料理史に刻まれたそうそうたる料理人たちから、学んできたのである。

 教え始めたのは23歳のとき。結婚したばかりの友人が「ご飯を炊いたこともない、味噌汁も作ったことがないお嬢様」だったため、相手の男性から「料理を教えてあげてほしい」と頼まれた。彼女は「私一人ではもったいないから、友達を呼んでくる」と言い、料理教室を始めることになったのである。やがて口コミで生徒数が増えていく。

 平日は外務省に勤め、週末は実家で料理教室を開く日々。稼いだお金で初めて行った外国はハワイで1974年だった。翌年に中国。その次の年に香港、フランス。ヨーロッパ、エジプトなどを巡って、ようやく憧れのソ連へたどり着く。

 まず1983年、モスクワとサンクトペテルブルクへ行く。ゴルバチョフが書記長になってペレストロイカが始まるのは1985年。まだ、国の監視は厳しかったものの、伝手をたどって料理上手な主婦から料理を教わることができた。

「だけど大国なので、2都市だけ行っても話にならないのね。例えばおじいちゃんがウズベク人、おばあちゃんがウクライナ人、自分はモスクワで生まれ育ったという人がいる。それから、お祭りや宗教絡みの行事料理、郷土料理がある。今のモスクワだけを観てもロシア料理は語れない、ソビエト全体をまとめて初めてロシア料理がわかる」と気づいたことが、各地を回る原動力になった。

カムチャッカ半島のダーチャ(ロシアの別荘)で出された料理。ボルシチ、にしんのマリネ、菜園の野菜が並ぶ。(荻野恭子撮影)
カムチャッカ半島のダーチャ(ロシアの別荘)で出された料理。ボルシチ、にしんのマリネ、菜園の野菜が並ぶ。(荻野恭子撮影)

教えるからには、と徹底して現地取材。

 恵比寿中国料理学院に通って以来の夢、中国各地を精力的に回ったのは50代のとき。『キユーピー3分クッキング』(日本テレビ系)の仕事で多忙な時期だったが、年間のスケジュールが決まっていたので、合間にストレス解消を兼ねて旅へ出たのである。山西省、湖北省、新疆ウイグル自治区、浙江省、四川省、チベット自治区、福建省、内モンゴル自治区……。「中国は近いから。ひどいときなんか今日帰ってきて明後日行くみたいな感じで、年13回回ったときもありました

 気になる土地へ足を運ぶのは、出合った料理を確実に自分のものにし、人に教えるためだ。そして、できるだけ「工程が難しすぎる料理や、日本人の口に合わない料理」を外して学ぶ。「日本人に今必要なレシピは、簡単お手軽なもの。だから簡単にできて、あまり味を変えないで本国の味を楽しんでもらえるもの。『私にもできた。またやってみよう』と思ってもらえることが、私の仕事だから」と荻野さんは言う。

 日本に留学中のトルコ人の学生が帰国する際、同行させてもらい、彼の母親から毎日朝から晩まで200品教わったこともある。目分量で作っている人たちから作り方を学んで分量を割り出し、日本の台所環境に合わせてできるレシピにするために、帰国後は何度も試作を繰り返す。

 外国料理を伝えるのは、料理を楽しんで笑顔になってほしい、と願うからでもある。「ほうれん草一つ取っても、他の国の料理も知っていれば、レパートリーが広がる。ヨーグルトにんにくソースをかければトルコ風、カレーで炒めればインド風にというように」。

トルコの黒海地方の名物料理、「ハムシ・ピラウ」(いわしのピラフ)。(三木麻奈撮影)
トルコの黒海地方の名物料理、「ハムシ・ピラウ」(いわしのピラフ)。(三木麻奈撮影)

 

体験することで発見する、食の背景

 そんな荻野さんを旅へと突き動かす一番の原動力は、何だろうか。異なる土地で似た料理を発見し、「つながっているのが分かるからこそ、回っている意味がある」と荻野さんは言う。

 例えば、13世紀に広くユーラシア大陸を侵略したモンゴルは「その際、ギョウザのくくりを持って行っている」。モンゴルには昔から、バンシーと呼ばれる羊肉を詰めて茹でるギョウザの仲間がある。ギョウザの起源には謎が多いが、ロシアのペリメニ、ジョージアのヒンカリ、ウクライナのヴァレーニキ、韓国のマンドゥなどは、モンゴルが持って行ったという説がある。「そういうものに出合ったとき、『ここにもモンゴルが来ているんだ』と発見するのがすごく楽しい」と荻野さんは話す。

 知識は本などから得ることができる。体験は実感となって身についていく。両方を積み重ねていくことで、自分の中に地図が出来上がり、料理の成り立ちが見えてくる。そうやって現地について調べ、行って食べて確かめてきた荻野さんは、フランス料理についても持論がある。

「『フランス料理って何?』と聞いたときに答えられる人は、そうそういないんですよ。なぜなら多くの料理は外国から持ってきたものだから。メディチ家のカトリーヌがフランス王家に嫁ぐときにカトラリーを持ってきた。マリー・アントワネットが嫁いでウィーンのパンが入ってきた」と話す荻野さん。

 では、何がオリジナルのフランス料理なのか。「私はジビエ料理だと思います。イル・ド・フランスにお城を建てた貴族たちが、秋になると狩りをし、専属コックたちに料理をさせている。臭いし堅い肉の臭みをワインやハーブで取り、煮込んで柔らかくしたものがジビエ料理になる」

 自分なりの仮説が導き出されるのは、世界を回ってきたからだ。荻野さんは、フランスへも1970~1980年代、2005年、2011年とくり返し出かけている。

「もう一度ぜひ行ってみたい国はありますか?」と尋ねると、「できれば違う国に行きたい。国連加盟国だけでも193もある。60カ国だと4分の1あまりしか行っていないわけだから、もっといろいろな国に行って食文化を観てみたい」と言う。荻野さんの旅人生は、当分終わりそうにない。

インド最北部、ラダックで蒸しギョウザ「モモ」の作り方を習った。(荻野恭子撮影)
インド最北部、ラダックで蒸しギョウザ「モモ」の作り方を習った。(荻野恭子撮影)
作家・生活史研究家

1968年兵庫県生まれ。広告制作会社を経て、1999年より東京に拠点を移し取材・執筆を中心に活動。食を中心にした暮らしの歴史・ジェンダー、写真などをテーマに執筆。主な著書に『家事は大変って気づきましたか?』・『日本外食全史』(共に亜紀書房)、『ラクしておいしい令和のごはん革命』(主婦の友社)、『平成・令和食ブーム総ざらい』(集英社インターナショナル)、『料理は女の義務ですか』・『小林カツ代と栗原はるみ』(共に新潮新書)、『なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか』(NHK出版新書)、『昭和の洋食 平成のカフェ飯』(ちくま文庫)、『母と娘はなぜ対立するのか』(筑摩書房)など。

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