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コロナフォビアのための「ワクチン」をつくる――感染者を非難しない感染症対策のために

明戸隆浩社会学者
緊急事態宣言下の日本。その背後で拡大する「コロナフォビア」とは…(写真:つのだよしお/アフロ)

可視化されるコロナフォビア

 この一週間ほどのあいだで、新型コロナウイルスに関連した差別やバッシングを批判する記事が立て続けに出された。筆者の観測範囲で目についたものを挙げるだけでも、辻田真佐憲「脅迫・中傷・投石・落書き・密告…多発する「コロナ差別事件」の全貌」(現代ビジネス、4月30日)、「親子で感染「加害者扱い」「後ろ指さされるよう」仙台の男性、長男はSNS中傷も」 (毎日新聞、5月1日、なおこの記事には筆者もコメントしている)、「「コロナ自警団」はファシズムか 自粛要請が招いた不安」(朝日新聞、5月2日)、佐藤直樹「コロナ禍で浮き彫り、同調圧力と相互監視の「世間」を生きる日本人」(現代ビジネス、5月2日)、「「お願い」という名の強制力 緊急事態で強まる私権制限」(朝日新聞、5月3日)、「コロナ感染者が謝罪、日本だけ? 「悪者認定」がもたらす致命的問題」(47NEWS、5月3日)、といったラインナップだ。

 そこで取り上げられた差別やバッシングを指す言葉は記事によって異なるが、ここではこうした現象を「コロナフォビア(coronaphobia)」と呼ぼうと思う。「phobia」は直訳すれば「恐怖症」だが、「ゼノフォビア(xenophobia/外国人に対する憎悪や差別)」「ホモフォビア(homophobia/同性愛者に対する憎悪や差別)」など、「差別」に近い意味合いで使われることも多い。従って「コロナフォビア」にはたとえばコロナウイルスが怖くて外出できないといったことも当然含まれるが、ここでとくに焦点を当てたいのはそれが「人」に対して適用された場合だ。そこで憎悪や差別の対象となるのは、コロナウイルスに感染している(とみなされた)人だけでなく、感染のリスクが高い仕事に従事している(とみなされた)人、感染する可能性のある行動をとった(とみなされた)人、感染を拡大する可能性ある場(店など)を提供した(とみなされた)人など、非常に幅広い。

 言うまでもなく、こうした現象それ自体はこの一週間のあいだに始まったものではない。たとえば上で最初に挙げた辻田さんの記事では多くの新聞記事が引用されているが、そのもっとも古い日付は3月27日、福島県での事件だ(この直前の3月25日には東京都の小池知事が緊急会見で週末の外出自粛を呼び掛けており、全国的にも感染拡大に対する緊張度が高まった時期である)。その後各地でコロナフォビアによって引き起こされた事件が続発することになるが、しかし少なくとも4月末までのあいだは、単発の事件についての記事は出されても、そうした事件を読み解く視点の提示は必ずしも十分ではなかった。

 そうした状況を大きく変えたのが、冒頭で挙げた一連の記事である。この時期に同様の記事が集中した背景に、5月3日の憲法記念日に人権関連の記事を合わせるというメディアの「習い性」があることはおそらく疑いない。しかしこのカレンダー上のタイミングは期せずして、この間のコロナフォビアの拡大を可視化し、それに対する対抗言論を示す契機となった。ここではこの一週間で形成されつつあるこうした対抗言論のための土台をより強固にするために、少し整理を試みたいと思う。

コロナフォビアを読み解くキーワード

 まず、先に挙げた記事を中心に、日本におけるコロナフォビアを読み解くためのキーワードを並べてみよう。するとこんな感じになる――密告、魔女狩り、隣組、自警団、自粛警察、相互監視、加害者扱い、犠牲者非難、自己責任、権威への服従、正義の鉄槌、ファシズム、同調圧力、世間のルール、疑心暗鬼、ケガレ、非国民、集団主義、他罰感情、ソフトパターナリズム、相互不信、悪者認定、自業自得、スティグマ、不寛容。もちろんこの中には微妙に相反するものもいくつかあるが、大よそこうした言葉が示す先に今回の問題がある、ということはよくわかるだろう。

 なおここでもう一つ興味深いのは、言葉遣いについては論者間の重なりがかなりあるにもかかわらず、背景にある学問分野はかなりバラバラだということだ。先ほどの記事の著者や登場する論者だけで見ても、歴史学、社会学、刑法、憲法、社会心理学…といった具合である(しかもどこかに偏るというよりは各分野まんべんなくいる感じ)。もちろん上の記事はあくまでも現象論であり、それ自体がいわゆるアカデミックな研究の成果というわけではないのだが、個々の著者についてある程度わかった上で読むと、そこで言われていることがそれぞれのこれまでの研究の蓄積をふまえたものであることはすぐにわかる。

 つまり今回のコロナフォビアは文字通り「分野横断的」なテーマであり、異なる蓄積をもつさまざまな学問分野を背景にした論者が、異なる視点から、しかしほぼ同様の結論に至っている。記事の場合はどうしても一つの記事に一人という感じになりがちだが、もしこうした論者を一カ所に集めてシンポジウム的な企画を行ったら、さらに多くのことが見えてくるのではないかと思う(今は残念ながらオフラインのシンポジウムを企画することは難しいが、その分オンラインで居住地を問わず多くの論者を集める条件が整ってきている)。

コロナフォビアが生じる条件――罰則も補償もない「ルール」

 少し話がそれたが、以下では先ほど俯瞰したキーワードをもとに、論点ごとに順に見ていきたい。1つめは、コロナフォビアが生じる条件である。

 出発点となるのは、感染症対策の一環として行われる何らかのルールの設定だ。今回の感染についてはこうしたルールはとくに「行動変容」など「行動」という言葉で示されることが多かったが、今月4日に政府の専門家会議によって新しく出された見解では、「新しい生活様式」と「生活」という言葉が使われるようになった。いずれにしても「こういう行動パターンが望ましい」「こういう生活パターンが求められる」といった形で政府や専門家によってルールが設定され、コロナウイルス流行の終息のためにはそれが不可欠だという強い示唆がなされる。これが、その後に続く展開の端緒となる。

 けれども、権力や権威をもった組織や人からそうしたルールが示されたとしても、人々はすぐにそれに従うわけではない。ましてやルールの設定によってすぐに相互監視が行われるようになるということはなく、実際にそうしたことが生じるためにはいくつかの条件が必要になる。

 まず一つは、そこで示されるものは確かにルールではあるが、「法律」ではないということだ。すでに指摘されているように、今回日本では「自粛」という名の下に強制力のない形でルールが示されたが、諸外国ではある種の外出や接触に対して明確な罰則を設けるケースも多い。そちらのほうが対応としてよりよいと言えるかどうかについては議論の余地があるが、しかしいずれにせよそうした法的な対処を行わないことによって、「ルールはあるが、それを破ってもとくに(法的な)ペナルティはない」という状態が生じることになる(このあたりは冒頭の記事のうちとくに佐藤直樹さんの記事に詳しい)。

 しかし、仮にルールを破ることにペナルティがなくても、逆にルールを守ることを後押しするような補償政策が早くから積極的になされたならば、事態は違っていた可能性がある。「ルールを守る」とだけいうと一見簡単な話にも聞こえるが、実際にはそれは店を閉めて収入源を断たれることであり、決まっていたイベントをキャンセルしてその分借金を背負うことであり、自宅で待機することでその分の時給を諦めることである。また仮にそこまで深刻なものでなくても、「家にいなければならない」ということは多くの人にとってはストレスとなる。つまり、この状況で政府や専門家から示されたルールを守ることには(莫大な、あるいはそれなりの)コストを伴うものであり、そこでそうしたコストを補償する政策がないなら、ルールを守ることはその分(その大小の違いこそあれ)マイナスになる。

 ルールを破っても公的なペナルティはないが、ルールを守ると(ときには命にかかわるような)マイナスになる。こうした条件がそろったとき、こうしたある種のアンバランスを調整するための「絶好の」仕組みが、相互監視や自粛警察だ。つまり法的には犯罪ではないことを「自主的に」悪だと認定し、それを非難する。そうすることで、ルールを破った者は法とは異なる形で(場合によってはそれ以上に深刻な)ペナルティを受け、一方ルールを守っている者は自分が標的とならないという「利益」を得る。要は相互監視や自粛警察が介在することで、ルールを守ることの「妥当性」が結果的に担保されるわけだ。こうして、政府や地方自治体、あるいは専門家によって設定された「正しい」はずのルールは、それに従わない者をバッシングするという形で、コロナフォビアを拡大していく。

コロナフォビアの正当化――犠牲者非難と自己責任

 しかし、コロナフォビアの中でももっとも深刻な問題である感染者に対するバッシングは、たんに上のような条件が揃うだけでは成立しづらい。というのは、感染者は普通に考えれば新型コロナウイルスに感染し病気になった被害者であり、それを非難するということは、それを正当化する何らかの論拠が必要となるからだ。しかし実際には、こうした論拠は残念ながらすぐに見つかる――「犠牲者非難(被害者非難)」と呼ばれるレトリックがそれだ。

 この点には冒頭の記事で言うと5月1日付の毎日新聞の記事に筆者自身が寄せたコメント、および5月3日付の47NEWSへの三浦麻子さんの寄稿がかかわるが、犠牲者非難とは、たとえば性被害に遭った女性に対して「被害者側にも責任があったはず」(後で示すように自己責任論は犠牲者非難の典型的なレトリックである)と言い放つなど、加害者を擁護し被害者の責任を強調するような現象を指す。筆者はこれまでこの問題について、それが人種差別やヘイトスピーチの被害者に向けられたケースを中心に研究してきたが、今回各地で感染者バッシングが拡大する中で、最初に想起したのはこのキーワードだった。

 そしてコロナフォビアにおける感染者バッシングの特徴は、犠牲者非難の中でも悪質性の高い「被害者の加害者化」が、きわめて容易になされるということだ。その理由は言うまでもなく、感染症の患者は感染して被害者になった瞬間に他の誰かに病気を感染させる可能性をもつという点にある。もちろん誰かにコロナウイルスを移すことを「加害」と呼ぶことは適切ではないが、感染者は「まわりの人にウイルスを移す可能性がある」という点において、他の犠牲者よりもずっと容易に「加害者扱い」されてしまう(たとえば筆者が専門とする人種差別の事例でも「在日が日本人を虐げている」など被害者を加害者化する言説は見られるが、そうしたことを鵜呑みにするのは一部のコアな排外主義者に限られる)。

 その一方で、犠牲者非難においてより典型的に見られる「自己責任論」も、今回の状況の中できわめて重要な役割を果たす。先ほど確認したように、今回のようなケースでは政府や専門家によって一定のルールが設定され、そうしたルールを守らなかった人がバッシングの対象になる。そしてそこにおいては感染者もまた「ルールを守らなかった(結果として感染した)人」としてバッシングされることになるのだが、そこでは「感染した」ということそれ自体が「ルールを守らなかった」ことの何よりの証拠だと見なされる。つまり感染者は不運にもウイルスに感染してしまった犠牲者ではなく、ルールを守らなかった結果自ら感染を呼び込んだ者として扱われるのだ。

 これは被害者の自己責任を問うことでその被害者性をはぎ取る典型的な犠牲者非難であり、そうやって被害者性をはぎとられた感染者には、上で示した「加害者性」のみが残ることになる。こうして、感染者へのバッシングは正当化され、さらに拡大していく。

「副作用」としてのコロナフォビア/コロナフォビアの「利用」

 さて、最後に再び政府や地方自治体についての議論に戻ろう。先に示したのは、政府や地方自治体がペナルティも補償もなくルールだけを押し出すことで、結果としてコロナフォビアが拡大するということだった。しかしそこにおける政府や地方自治体の位置づけについては、実際には次の2つの可能性がある。

 1つは、政府あるいは地方自治体としてはそうしたコロナフォビアを望んではいないが、「残念ながら」コロナフォビア防止のための対策が十分ではないという可能性だ。たとえば先ほども触れた専門家会議による「新しい生活様式」に対しては、「これに従わない/従えない人がまたバッシングされるということを専門家会議はわかっているのか」という批判がなされている。今回の提言の内容それ自体についての議論にはここでは立ち入らないが、少なくとも言えることは、そこではこの間急速に明らかになってきたコロナフォビアという「副作用」が、十分に考慮されていないように見えるということだ。

 とはいえ、もし問題がたんなる副作用に対する認識の甘さということであれば、政府や地方自治体にそれを認識させてそうした副作用を防止する政治的メッセージを出させることは、そこまで難しいことではない。少なくとも、冒頭で示したようなこの一週間でのコロナフォビアの可視化を受けて、今後なおそうした負の部分を無視し続けることは難しいだろう(実際4日の記者会見では、安倍首相でさえ「感染者や医療関係者への差別」に対する懸念を示している)。

 しかし実際には、これはそんなに簡単な話ではない。というのは、コロナフォビアは実際には感染症の拡大防止という「正しい」目的のための「効率的な」手段として悪用されうるという現実があるからだ。つまりここで見てきたようなコロナフォビアは、感染症の拡大防止という目的を達成する際にたまたま生じてしまう副作用ではなく、目的達成のための手段そのものであるのかもしれない、という視点を持つ必要がある。実際感染症の拡大防止にあたっては人々の外出や接触を減らすことが至上命題だが(言うまでもなく筆者もこの目的自体は重要なものだと考えている)、コロナフォビアを利用してバッシングさせ合うことは呼びかけや啓発よりもある意味効果が高いし、また協力するすべての人に補償金を出すよりも(嫌な言い方になるが)「安上がり」である。政治家にとっては、上手くパフォーマンスすれば支持率を上げることにつながる「魅力」もある。

 もしコロナフォビアが政治家や役人にとってある種の「利用価値」をもつものであるなら、そこでそうした手段を採用させないことは、副作用に注意を喚起するなどということよりもずっと困難だ。世論から何のプレッシャーもない状態でそうした手段の採用を回避するということは、よほどの胆力がある政治家でなければ難しいだろう。もちろん意図的にコロナフォビアを悪用する政治家は論外だが、同時に重要なのは、そこで「易きに流れる」形でそうした選択肢をとってしまう政治家や役人を、いかに減らすかということである。

コロナフォビアのための「ワクチン」をつくる

 ではどうすればよいのか。2つ、思い浮かぶことがある。

 1つは、日本赤十字社が3月26日(これはまだコロナフォビアによる事件がそこまで知られていなかった時期である)に出した、「新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!」というキャンペーンだ。そこで強調されたのは、コロナウイルスが「病気」のほか「不安」「差別」と合わせて3つの感染症として流行するということだった。また実際にコロナフォビアが拡大した後の4月21日には、今度は「恐怖」をキーワードに動画化したキャンペーン「ウイルスの次にやってくるもの」も行われている。これら一連のキャンペーンは、コロナフォビアの抑止ということを考える際、あらためて非常に重要な意味を持つ。

 そしてこれに重なる形でもう一つ頭に浮かんだのは、つい先日zoomを使って50人ほどでコロナ禍における人権について議論する機会があった際、参加者の一人が言っていた「子どもにもわかるような形でコロナ差別を止めるための「ワクチン」をつくる必要がある」という発言である。「ワクチン」という言葉はある問題が広がっているときにそれを止めるための手段を指して普段から比喩的に用いられることがあるが、現在の状況ではこの言葉はよりリアルな意味をもつ。

 実際、現在の新型コロナウイルス流行の終息のためには、ワクチンの開発が不可欠だと言われる。もちろんこれは、コロナウイルスに対するワクチンである。では、コロナフォビアについてはどうか。もちろん、コロナウイルス自体の流行が終息すれば、コロナフォビアもなくなるだろう(さまざまな他の「フォビア」は残り続けるとしても…)。しかし逆に言えば、コロナウイルスの流行が終息するまでの(おそらくある程度長い)期間においては、「コロナフォビアのためのワクチン」が必要だ。そしてそれはコロナウイルス自体のワクチンとは異なり、あらゆる人がその開発者になる可能性をもっている。さらにそれはワクチンである以上、社会の中でコロナフォビア拡大が防止される上で十分な数の人に「接種される」必要がある。つまりコロナフォビアのためのワクチンは、その開発においても接種においても、多くの人が関わることを必要とする。

 コロナフォビアのためのワクチンが「ワクチン」にとして機能するために重要なのは、まさに日本赤十字社のキャンペーンがそうであるように、なぜコロナフォビアが起こるのか、それが何によって助長されるのかを、誰にでもわかるように、しかし大事なところを省かずに、伝えることである。コロナフォビアが可視化され、誰の目にも見えるようになればなるほど、そこに加担することは(たとえ少しずつであっても)しづらくなる。そうした人が増えれば、たとえ「安上がり」な手段であっても、政治家はそれを採用できなくなる。あるいは、そのほうが財政的にも人気取りとしても楽だということをわかりつつ、あえてコロナフォビアを利用せず、むしろ批判を浴びてもそれを抑制しようとする政治家が、支持されるようになる。

 問題の深刻さのわりに、最後は少し楽観的に書きすぎたかもしれない。けれども、おそらくこの方向しかないと思う。時間はかかるだろうし、その終息に向けた努力が重要なことは言うまでもないが、しかしコロナウイルスの流行自体はいつか終息する。では、それまでのあいだ、コロナフォビアを蔓延させるままにしておくのか、それともそれを少しでも食い止めるのか。この状況の中でほかにも考えなくてはいけないことは数多いが、それが喫緊の課題の一つであるということだけは、間違いない。

社会学者

1976年名古屋生まれ。大阪公立大学大学院経済学研究科准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。専門は社会学、社会思想、多文化社会論。近年の関心はヘイトスピーチやレイシズム、とりわけネットやAIとの関連。著書に『テクノロジーと差別』(共著、解放出版、2022年)、『レイシャル・プロファイリング』(共著、大月書店、2023年)など。訳書にエリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ』(共訳、明石書店、2014年)、ダニエル・キーツ・シトロン『サイバーハラスメント』(監訳、明石書店、2020年)など。

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