Yahoo!ニュース

東京都人権部による飯山由貴《In-Mates》上映不許可事件は、何を問うのか

明戸隆浩社会学者
東京都庁内で記者会見する飯山由貴(アーティスト)とFUNI(ラッパー・詩人)

飯山さんらによる東京都人権部への要望書提出

 昨年(2022年)8月から東京都人権プラザで行われたアーティスト飯山由貴さんの企画展「あなたの本当の家を探しにいく」において、映像作品《In-Mates》の上映が合理的な理由なく許可されなかった問題で、3月1日、飯山さんらが人権プラザを管轄する東京都人権部に作品の上映などを求める要望書を提出した。要望書には、この日までに集まった30,138筆のオンライン署名も添えられた。

 要望書の提出およびその後都庁内で開かれた記者会見には多くのメディアが集まったが、とくに要望書の提出の際には都側が用意した部屋に報道関係者が入りきらず、前半後半で部屋内に入るメディアを入れ替えて要望書提出を二度行うというやや異例の事態となった。記者会見での飯山さんの話によると、そもそも都側は要望書提出を報道関係者を入れずに行う予定だったとされ、こうしたところからもこの問題に対する都側の認識の低さと、問題の深刻さおよび社会的な関心の高さとの乖離がうかがえる。

 また要望書提出後は報道関係者を外し、飯山さんおよび作品に出演したラッパー・詩人で在日コリアン2.5世のFUNIさんが、人権部の担当課長に直接口頭で要望を伝える場も設けられた。しかしこれについても事前に都側から要望は聞くが回答は控えるという方針が伝えられており、記者会見でのFUNIさんの表現を借りればはじめから「レスポンス」が不在であることが前提の、非常に不自然な場となった。

 なお筆者(明戸)はもともとはこの問題に直接かかわる立場ではなかったが、当日いくつかの偶然から、記者会見に出席予定で急遽来られなくなった歴史学者の外村大さん(戦前の在日朝鮮人問題の講師役として作品に出演)の代理として記者会見の進行役を務めることになり、またその流れで上に書いたような要望書の提出にも同席することになった(上記の記述が伝聞形でないのはそのためである)。その意味でこの記事に一定の「当事者性」があることは否定しないが、むしろ以下では、この事件に関心がなかったり、あるいはこの事件をとくに問題だと感じなかったりする人にも届く形で、この事件が提起している問題について書きたいと思う。

そもそも何があったのか

 今回の事件は、その概要自体はシンプルである。すなわち、昨年8月から11月にかけて東京都人権プラザで行われたアーティスト飯山由貴さんの企画展「あなたの本当の家を探しにいく」で、附帯事業として申請されていた飯山さんの映像作品《In-Mates》の上映が、東京都人権部によって許可されなかったというものだ。

 これに対してそうした結果が生じたプロセスおよび理由は、不透明でわかりにくい。時系列で整理すると、まず昨年5月に東京都人権部から人権プラザの指定管理者である人権啓発センターにメールが送付され、映像について以下の3点の懸念が示された。(1)関東大震災における朝鮮人虐殺についての都の認識との齟齬がある。(2)作品内の歌詞がヘイトスピーチと受け取られかねない。(3)在日コリアンの生きづらさが強調されることで参加者が嫌悪感をもつおそれがある。

 その後人権部から「決定事項」として上映は許可されないとする文書がセンターに届き、正式に上映の不許可が決まる。それから8月まで断続的に飯山さんらとセンターの話し合い等が行われるが状況は変わらず、そのまま8月30日からの企画展の会期を迎えた。そして会期の半ばを過ぎた10月28日、飯山さんらによって記者会見が開かれ、上記のメールの内容を含むこの事件の詳細が初めて公にされることになった。

 なお同じ10月28日には東京都総務局が都議会議員および報道機関宛てに公式の説明文書を送付しているが、先の「懸念」のうち理由として言及があったのは(3)のみで、とくに(1)については関東大震災における朝鮮人虐殺が理由ではないとする注記をわざわざ入れている。そして(4)本企画展のテーマは「障害者と人権」であって当該作品はその趣旨に沿わない、という理由が新たに追加された。

何が論点なのか(1)――関東大震災朝鮮人虐殺と都知事の責任

 つまり今回の上映不許可については、内部メールか公的な説明かをさしあたり抜きにして言うと、都側から全部で4つの「理由」が示されたことになる。以下、順に見ていきたい。

 まず(1)関東大震災における朝鮮人虐殺についての都の認識との齟齬がある、だが、これは作品内で外村さんが「[関東大震災時に]日本人が無実の朝鮮人を相当殺したのは間違いない」と述べたことに関わるものだ。すでに多く指摘されているように、当初人権部職員がこの点を「懸念」として挙げた背後にあったのは、小池百合子現東京都知事のスタンス、すなわち関東大震災における朝鮮人虐殺の犠牲者を震災全体の犠牲の中に含めて矮小化しようとするというスタンスである。しかし10月の公的な説明ではこうした「懸念」は上映不許可の理由とされず、むしろそれが理由ではないと強調されることになった。

 ここで重要なのはまず、今回の事件によって、都知事の偏った認識が都職員にどのように影響するのかということが、この上なく具体的に明らかになったということだ。今回の事件が都職員による都知事への「忖度」だというのは確かにその通りだが、5月のメールにはあまりにも明確に「都知事の立場」への言及があり、忖度としては例外的なほど影響関係が明瞭である。そしてここまで明瞭に影響関係が確認された後では、その後の公式説明における不自然な「否定」もまた、そうした影響関係の裏側からの追認材料にしか見えない。

 そしてもう一つ重要な論点は、このように明らかに組織内部での影響力が確認されながら、しかし公的には否定しなければならないような見解を、都知事が保持していることについてである。知事は表面上「犠牲となったすべての方々にに哀悼の意を表す」「何が事実かについては歴史家が紐解く」などの抽象的な文言を繰り返しているが、その「効果」は上記のように明瞭である。本人の意図がどうであれ(とあえて言っておく)、職員から見た知事の立場は朝鮮人虐殺の否定あるいは矮小化なのであり、したがって今回の事件を経た後では、知事は当然自らの発言のそうした「効果」をふまえて、その責任を問われることになる。

何が論点なのか(2)――ヘイトスピーチとその文脈

 次に(2)作品内の歌詞がヘイトスピーチと受け取られかねない、についてだが、これも当初は「懸念」として示されながら最終的に公的な理由とはされていないので、そこに正当性がないこと自体は都人権部自身も認識していると思われる。しかしもしそうであれば当初の「懸念」が間違ったヘイトスピーチ理解のもとで示されたことについての説明が必要なはずだが、実際には都からは何の言及もない。

 人権部職員に当初の「懸念」をもたらしたのは、おそらくFUNIさんが作品内で歌った「俺は日本人だから朝鮮人は全員抹殺だ」「俺は日本人だから朝鮮人は一人残らずぶっ殺してやる」の部分だと思われる。実際法務省も、ヘイトスピーチ解消法で定める「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」のうちの一つのである「害悪の告知」について、その具体例として真っ先に「○○人は殺せ」を挙げており、確かに字面だけ見ればヘイトスピーチに該当するようにも見える。

 しかしある言動がヘイトスピーチに当たるかどうかというときにもっとも重要なのはその字面ではなく、そうした言動が具体的に差別を煽動するものであるかどうかである。実際上の歌詞は自身も在日コリアンであるFUNIさんが、戦前の日本で精神病院に入院していた朝鮮人に扮して歌ったものであり、そこでは前半の「俺は日本人だから」という部分は、精神を病んだことによる錯乱(後述するように実際にはたんなる錯乱とも言えないのだが)として理解できるものになっている。こうした複雑な状況で歌われた歌詞が、現実的に差別を煽動するものになることは、まずありえないだろう。

 とはいえこうしたことが言えるのは、あくまでも作品の趣旨が適切に理解されている場合である。これは人権部の「懸念」でも示されていたことではあるのだが、もしそれが部分的に切り取られて視聴されたとき、そこに誤解が生じる可能性は否定できない。しかし今回飯山さんによって提案されていたのはイベントとしての作品上映とトークであり、展示スペースに作品を置きっぱなしにすることではない。イベントとしての上映ならば部分的な切り取りはほぼありえず、さらにそこにトークという形で解説が付けば、誤解の余地は限りなくゼロになる。

 このように、ある言動がヘイトスピーチであるかどうかを判断する上では、そこにどのような言葉が含まれているかに加えて、それがどのような文脈で用いられるか、またそうした文脈が受け手に理解可能な形になっているかどうかも重要な意味をもつ。東京都人権部はヘイトスピーチ対策を主軸の一つとする2018年の人権条例を管轄する部署であるが、その職員がこうしたヘイトスピーチ概念の濫用を行い、その後それについて何の説明もせずに「なかったこと」にしようとしていることは、上映不許可の事件にとどまらない深刻な問題である。

何が論点なのか(3)――バックラッシュに与する人権部

 続いて(3)在日コリアンの生きづらさが強調されることで参加者が嫌悪感をもつおそれがある、であるが、ここで驚くべきことは、多少の文言の変更があったとはいえ、この「懸念」が10月に出された公的な理由説明にも使われていることだ。

 こうした「懸念」が含意しているのは、在日コリアンの困難を強調するとそれを見た「日本人」が反発を感じるというようなことだと思われるが、これ自体はある意味「ありきたり」の言説である。女性の人権について問題提起すれば男性の権利はどうなるのだという声が上がり、外国人の権利を語れば国籍保持者を優先すべきだという反発が起こり、障害者の人権の重要さを説けばそのために障害のない人がコストを追うのはおかしいという意見が出る。これらはいわゆる「バックラッシュ」と呼ばれ、マイノリティの人権問題に少しでもかかわったことがあれば、嫌でも直面せざるをえないだろう言説である。

 しかしもう一度言うが、ここで驚くべきことは、ほかでもなく日本最大の地方行政機関の「人権部」が、こうしたバックラッシュに与するようなことを言い、しかもそれを上映不許可の理由として公的にも表明したということだ。都はその人権政策の基本方針を「東京都人権施策推進指針」という形でまとめているが、そこでは個別の人権課題として「女性」「子供」「高齢者」「障害者」「同和問題」「アイヌの人々」「外国人」「HIV感染者・ハンセン病患者等」「犯罪被害者やその家族」「インターネットによる人権侵害」「北朝鮮による拉致問題」「災害に伴う人権問題」「ハラスメント」「性同一性障害者」「性的指向」「路上生活者」などを挙げている。これらの課題は一部を除いて個別のマイノリティに対応するものであるが、(3)の「在日コリアン」のところにここに挙げられているマイノリティを入れて考えてみれば、そこで言われていることが「人権部」にとっていかに自己破壊的なことであるかということは、すぐにわかるだろうと思う。

 なお念のために言い添えれば、10月の公的説明では「参加者の嫌悪感」の代わりに「参加者にとってのわかりづらさ」が強調されており、当初のグロテスクさは一見軽減されているようにも見える。しかし(3)を「在日コリアンの生きづらさが強調されることで参加者の理解が深まらないおそれがある」などと言い換えた上で「在日コリアン」のところに先の個別のマイノリティを代入しても、起こることは同じである。マイノリティの生きづらさを直視しない人権政策などというのは、どこから考えてもありえない。

何が論点なのか(4)――複合差別という問題

 最後に、10月の説明で新たに追加された(4)本企画展のテーマは「障害者と人権」であって当該作品はその趣旨に沿わない、について検討しよう。この「理由」は、一見するとこれまでのなかでもっとも「まとも」であるようにも見える。というのは、ある企画にそれに沿った「趣旨」があり、その「趣旨」に照らして提示する作品を取捨選択するということそれ自体は、十分にありうることだからだ。表現者の表現の自由は当然尊重されるべきではあるが、その一方で展示施設などがそこで発信される表現に一定の制約を加えることは、それ自体として否定されるべきことではない。

 しかし実際には、この「理由」もまた正当なものではない。それはこの「理由」が「後出し」に過ぎないからというのももちろんあるが、それ以上に問題なのは、この「理由」によって《In-Mates》という作品を排除することが、在日朝鮮人でありかつ障害者であることの困難、いわゆる「複合差別」の問題を、切り捨てることになることだ。

 実際、作品内で戦前の在日朝鮮人に扮したFUNIさんが「俺は日本人だから」と叫ぶとき、それはたんなる「錯乱」ではない。1910年の韓国併合によって朝鮮半島は制度上「日本」となり、そこに住む人々は制度上「日本人」となった。つまり制度上、彼の叫びはまったく「錯乱」ではないのだ。しかし実際には、そう叫ぶ彼は「精神を病んでいる」とされる。これはいったいどういうことなのだろうか。少なくとも言えるのは、そこでは精神障害であることと在日朝鮮人であることが、不可分に結びついているということだ。《In-Mates》がもたらす最大のメッセージの一つはそこにあると、筆者は思う。

 その上であらためて示せば、複合差別とは、女性と障害、セクシュアルマイノリティと外国人など、複数のマイノリティ属性が絡まり合うことで、より困難が強まることを指す言葉である。そしてそこで困難がより強まる理由の一つは、定義上ある一つのマイノリティの問題に収まりきらない複合差別の問題が、典型的なマイノリティ問題に比べて軽視されやすいことだ。東京都が「これは在日朝鮮人の問題だから」と言って精神障害と在日朝鮮人の複合差別の問題を切り捨てることは、まさに複合差別がこれまで被ってきた困難を、公的に上塗りする行為なのである。

 先に引いた東京都の人権施策推進指針に戻ると、そこにはこのようなくだりがある。「東京都では、これまで女性や子供、高齢者、障害者、同和問題等の人権課題を解決するために、それぞれの課題ごとに、その問題が抱える固有の経過と状況を踏まえて施策を講じてきました」。そしてその後、こう書かれる。「一方、人権課題は複雑化・多様化しており、また、新しい人権課題も生じていることから、従来の施策体系では対応が困難となる事例が発生しています」。ここには複合差別という言葉はないが、含意がそこにあることは明らかだろう。

 そうだとすれば、《In-Mates》が企画展の趣旨に合わないのではない。《In-Mates》が企画展の趣旨に合わないと断ずるその態度こそが、東京都の人権政策の趣旨に合わないのである。

 以上のように、公的には「なかったこと」にされた(1)と(2)だけではなく、10月の公的説明で示された(3)(4)もまた、人権という概念、あるいはより狭く東京都自身が示す人権政策に照らしてさえ、まったく合理的なものではない。当初の内部メールだけでなく半年時間を経た後の公的説明ですらそういう状況であるとすれば、間違っているのはおそらく個別の理由ではないだろう。問題の根源は、《In-Mates》を上映しないという都の判断、それ自体である。

社会学者

1976年名古屋生まれ。大阪公立大学大学院経済学研究科准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。専門は社会学、社会思想、多文化社会論。近年の関心はヘイトスピーチやレイシズム、とりわけネットやAIとの関連。著書に『テクノロジーと差別』(共著、解放出版、2022年)、『レイシャル・プロファイリング』(共著、大月書店、2023年)など。訳書にエリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ』(共訳、明石書店、2014年)、ダニエル・キーツ・シトロン『サイバーハラスメント』(監訳、明石書店、2020年)など。

明戸隆浩の最近の記事