Yahoo!ニュース

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」をめぐって起きたこと――事実関係と論点の整理

明戸隆浩社会学者
8月1日に開幕した「あいちトリエンナーレ2019」メイン会場入口(筆者撮影)

 2019年8月1日、あいちトリエンナーレ2019が開幕した。同年8月3日、その中の展示の一つ「表現の不自由展・その後」が、中止となった。

あいちトリエンナーレと「表現の不自由展・その後」

 あいちトリエンナーレは2010年から3年ごとに開催されている国内有数規模の国際芸術祭で、2019年はジャーナリストの津田大介氏を芸術監督に迎え、「情の時代」をテーマに掲げた。作家の選定にあたってその男女比を同等にすることを打ち出すなど芸術祭の枠を超えて話題となる要素も多く、実際前売りチケットの売り上げも開始2カ月前の時点で前回より2倍多かったという

 その中の展示の一つである「表現の不自由展・その後」は、「その後」という名称からもわかるように、今回のトリエンナーレでゼロから企画されたものではない。オリジナルの展覧会である「表現の不自由展~消されたものたち」は、2015年の1月から2月にかけて、東京・江古田の小さなギャラリーで行われた。今回のトリエンナーレでの展示は、2015年の展覧会で扱われた作品に、この4年間で新たに展示が不許可となった作品を加えて構成されたものだ。

 筆者がこの企画を知ったのは、2019年4月1日に、芸術監督の津田氏がTwitterで出展作家の告知を行ったときだった。津田氏はその一番手として「表現の不自由展・その後」を紹介したが、それは2015年にオリジナルの展覧会を訪れていた筆者にとっても、新鮮な驚きだった。

「表現の不自由展・その後」で何が起きたのか

8月1日

 「表現の不自由展・その後」に対する政治的な圧力がはじめて明らかになったのは8月1日、あいちトリエンナーレ開幕の日だった。この日河村たかし・名古屋市長は、「表現の不自由展・その後」の展示の1つである「平和の少女像」を問題視する発言をし、翌2日に展示を視察する旨表明した

 (ただし実際にはそれに先立って、開幕前日の7月31日午後にはすでに高須克弥氏百田尚樹氏らがこの問題にTwitterで言及し、事務局に対する抗議電話も始まっていた。)

 なお河村市長の発言の前には松井一郎・大阪市長が「にわかに信じがたい!河村市長に確かめてみよう」とツイートしているが、河村市長は翌2日の取材で「大阪市の松井市長に聞いて知った」と発言しており、松井市長から連絡があったのは確かなようだ。なお同日夜には、和田政宗・参議院議員(自民党)も、この問題についてTwitterで言及している

8月2日

 河村市長は2日12時前、あいちトリエンナーレのメイン会場である愛知芸術文化センターに到着。会場奥にある「表現の不自由展・その後」を担当者に案内されながら15分ほどかけて視察し、その後のぶら下がりの取材の中で、「平和の少女像」の展示を中止するよう大村秀章・愛知県知事に求めることを表明した(なお筆者はこの日たまたま会場を訪れており、視察後の取材にも居合わせることになった)。

 また並行して政府閣僚なども次々とこの問題に言及し、2日午前の記者会見では菅義偉官房長官が「補助金交付の決定にあたっては、事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と発言。また柴山昌彦・文部科学大臣も補助金の問題に言及したほか、自民党の保守系議員でつくる「日本の尊厳と国益を護る会」(代表幹事・青山繁晴参議院議員)も、少女像について「公金を投じるべきでなく、国や関係自治体に適切な対応を求める」との声明を出した。

 こうしたことを受けて、2日夕方に津田氏が会見。事務局に対して抗議の電話やメールが殺到しており、中にはテロ予告や脅迫ととれるようなものもあると説明し、少女像の撤去あるいは「表現の不自由展・その後」の展示全体の中止を検討すると述べた

8月3日

 そして翌日、8月3日夕方。あいちトリエンナーレ実行委員長でもある大村知事が臨時の記者会見を開き、「表現の不自由展・その後」全体の中止を発表。「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」とした脅迫FAXが来たことなどに触れ、おもに安全面の理由で中止を決めたと説明した。また津田氏も会見し、抗議の電話やメールの状況が想定を上回るものだったとした上で、河村市長や菅官房長官の発言の影響については、これを強く否定した

 これに対して「表現の不自由展・その後」の実行委員会のメンバーは、大村知事および津田氏の決定は一方的なものだったとして3日夜に抗議文を発表し、法的対抗手段も検討していることを明らかにした一方河村市長は、記者の取材に対して「やめれば済む問題ではない」と述べ、関係者の謝罪を要求した

きわめて露骨な「表現の自由」の侵害

 以上が、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」をめぐって起きたことのうちの、事実関係にかかわる部分である。では、内容的には、そこで起こっていたのはいったいどういうことだったのか。

 まず確認しておくべきことは、今回の事件における河村市長の介入や菅官房長官の発言が、国や地方自治体による「表現の自由」に対するきわめて露骨な侵害だったということだ。本来すべきではないことであってもあまりにもあからさまにやられると受け取る側の感覚が麻痺してつい受け入れてしまうということが起こるが、そうならないためにも、この点は最初にはっきりさせておく必要がある。

 実際、最近は「表現の自由」という言葉がかなり広く用いられる傾向にあるが、「表現の自由」がもっとも必要とされるのは、まさに今回のように国や地方自治体が表現を抑圧することに対抗する際だ。とくに河村市長の言動は、市長の立場で特定の作品についての撤去を直接責任者に申し入れただけでなく、撤去後も関係者の謝罪を要求するなどしており、「表現の自由」が本来守ろうとしていることをことごとく踏みにじるものだと言える。

 なお関連する論点として、今回の河村市長の介入や菅官房長官の発言が「検閲」にあたるのかというものがある。定義の問題として言えば、狭義の「検閲」が指すのは行政による事前抑制である。その点では今回はこうした狭義の「検閲」は行われていないし、それは津田氏の2日の会見大村知事の3日の会見でも強調されている。

 しかしより実効的な観点から考えた場合、「検閲」は必ずしもこうした事前抑制に限られるものではない。日本で「検閲」といったときに真っ先に想起される戦前の新聞紙法や出版法による検閲でさえ、すべてを実際に見て潰していったわけではなく、目立つものを検閲することでメディアが「委縮」し、自主的に「忖度」してそうした規範を受け入れるようなやり方が取られた(辻田真佐憲『空気の検閲』)。

 こうした観点からすると、河村市長の介入はもちろん菅官房長官の発言も、アーティストや芸術祭主催者などの「萎縮」と「忖度」のメカニズムを発動させるには十分なものだ。この点は、あいちトリエンナーレ単体ではなくより長期的な観点から考えても、きわめて重要な問題だと言える。

「金を出す以上口も出すのは当然」なのか

 とはいえ上の議論は、少し違った角度から補完しておく必要がある。すでに言及したように、菅官房長官は今回の件に触れるにあたって「補助金交付」に言及した。河村市長は記事になっている範囲ではお金に言及していないが、名古屋市はあいちトリエンナーレに約1億7000万円の予算を拠出しており、一連の発言も当然そうしたことを前提にしたものだ。

 さてこのとき、こういう疑問がありうる。確かに国や地方自治体による表現の自由の侵害はよくないかもしれないが、それは民間が独自にやっていることに横から口を挟む場合であって、国や地方自治体が出資元である場合には、当然話は違ってくるのではないか、と。端的に言えば、金を出している以上口も出すのは当然なのではないか、という疑問だ。

 確かにこれは、一見もっともらしい話ではある。しかし注意が必要なのは、そこで国や地方自治体が出している「金」は、当然ながら政府閣僚や地方自治体の首長個人のものではなく、あくまでも公的なものだということだ。文化や芸術について国や地方自治体に求められる役割は、やや極端に言えば道路や水道の整備と同様基本的な「インフラ」の整備なのであって、政治家や担当者の好みに応じて個別の作家や作品に金を出すことではない。

 実際、大村知事は3日の記者会見で、「行政機関が展示内容に口出しをしては芸術祭にならない」と強調した。これは重要な発言だが、同時にこれがあたかも大村知事個人のポリシーのように報じられているのはやや問題だ。国や地方自治体の役割がインフラの整備だという観点からすれば、むしろこれこそが「大原則」なのである。

 ただしそうは言っても、実際に金を出すのは具体的なイベントであり、そこに出品する作家や作品は当然選択しなければならない。そこで重要になるのが専門家への委託で、たとえば今回のあいちトリエンナーレであれば、その選択をするのは芸術監督である津田氏である。行政が行うのは、その津田氏を芸術監督として選ぶということまでだ。これを「間接的」な口出しだと考えることはもちろんできるだろうが、そのことと個々の作品についての展示や撤去について直接行政が介入することのあいだには、決定的な違いがある。

「表現の自由」に限界はある、しかし

 このように、この問題における大原則は「表現の自由」である。しかしそれは、表現の自由にはいかなる例外もない、ということを意味するものではない。実際、表現や言論であっても法的に許容されないものはいくつもある。たとえば、ある団体に「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」というファックスを送ることは形式的には「表現」の範囲内だが、実際には刑法上の脅迫として当然立件されうるものだ。

 同様のことは、名誉毀損や侮辱、あるいはプライバシー侵害についても言える。これらはいずれも「表現」を用いてなされるものだが、実際には法的な制約を受ける。またヘイトスピーチ(差別煽動)のうち特定の個人や団体に向けられたものではないもの(「○○人を追い出せ」のようなもの)は、日本やアメリカでは犯罪ではないが、EU諸国をはじめ刑事罰を科す国も多い(なお日本においても、こうした言動は2016年以降はヘイトスピーチ解消法によって「許されない」という位置づけになっている)。

 つまり一言で言えば、「表現の自由」にも限界はある。ではたとえば、今回もっとも焦点となった「平和の少女像」は、そうした「表現の自由」の限界にあたるものなのか。たとえば河村市長は、2日の視察後の取材で、中止申し入れの理由を「日本人の、国民の心を踏みにじるもの」だとした。河村市長は「ヘイトスピーチ」という言葉は使っていないが、今回の撤去は「ヘイトスピーチ」に対するものと同じ理由で正当化されるのではないか、と考える人は、おそらく一定数いるのではないかと思う。

 しかし実際には、こうした考え方は正しくない。まず強調しておかなければならないのは、ヘイトスピーチを規制するということは、誰かが不快になるような表現はいけないので禁止します、ということではないということだ。ヘイトスピーチの核心は「差別煽動」であり、それ自体は特定の個人や団体に向けられたものでなくても、それを聞いた人が特定の個人や団体に被害を与えうる、という点にポイントがある(たとえば「○○人を追い出せ」ということを聞いた人が、○○人である個人に誹謗中傷を行ったり、部屋を貸さなかったりする、など)。

 では、今回の少女像がそうした「差別煽動」にあたるのかと言えば、相当可能性を高めに見積もっても、あたらないと言わざるをえない。実際あの像を見て「日本人を追い出そう」「日本人を入店禁止にしよう」といったことが起きることを想定するのは、あまりに想像力を必要としすぎる話である。あえてこういう言い方をすれば、「ここは日本である」。そのとき、そこで日本人に対する差別煽動が生じるということは、ごく一部の例外を除き、基本的に考え難い。

 つまり今回河村市長が示した「理由」では、「平和の少女像」が表現の自由の例外になりうるということをまったく説明できない。表現の自由には確かに限界があるが、それは一首長がぶら下がり取材の中で設定していいようなものではないのだ。名誉毀損も、プライバシー侵害も、そしてヘイトスピーチも、表現の自由という大原則とのあいだの何十年にもわたる葛藤の中で生み出されてきた「例外」である。そうした蓄積のないところに突然思いつきで例外をつくるのだとすれば、それは正しく「表現の自由の冒涜」ということになるだろう。

「政治的な理由による排除」を可視化するために

 さて、以上基本的に「表現の自由」ということを中心に書いてきた。そもそも今回の展示のタイトルは「表現の不自由展・その後」であり、その中止が「表現の自由」をめぐる問題になるというのは、ごく当然のことであるかもしれない。

 しかし今回の事件を考えるにあたって、「表現の自由」は確かに重要ではあるけれども、同時にもっとも的確な視点というわけではない。実際展示された作品を見ればすぐにわかることだが、「表現の不自由展・その後」は、「表現の自由」全体を問題にしているわけではない。「表現の不自由」なら何でもいいというのであれば、たとえば名誉毀損とかプライバシー侵害とかヘイトスピーチとか、そうした効果をもつ作品を並べてもそれは可能だ。しかし実際に行われた「表現の不自由展・その後」は、そうしたものではない。このことについては、あらためて強調が必要だと思う。

 では、そこで示された「表現の不自由」は、どのような「不自由」だったのか。それは一言で言えば、「政治的な理由による不自由」である。「表現の不自由展・その後」で展示された作品は、いずれも過去に「政治的な理由」によって展示されなかったり、展示を中止されたりした作品だ。そしてそうした作品の排除は、まさに今回の展示中止がそうであったように、法的に蓄積された表現の自由の正当な「例外」とは別に、その場その場でアドホックに恣意的につくられた理屈のもとで行われた。「政治的な理由」は、そうしたアドホックな理屈に、たまたま付けられた総称にすぎない。

 そしてこうした「政治的な理由」による作品の排除は、少なくとも今回展示された作品の数だけ、すでに過去に行われている。その中には、それなりにこうした文脈を追ってきた筆者でさえ、詳細は把握していない排除もある。恐ろしいのはこうした排除が社会から見えにくい状態に置かれることだが、今回の「表現の不自由展・その後」(そしてオリジナルの「表現の不自由展」)が行ったのは、まさにそうでなければ見えにくい状態に置かれていた政治的な排除を、可視化することだ。

 その展示が、今回、中止となった。中止になることも含めてアート、といった開き直りにとどまれるほど筆者は楽観的ではないし、3日間でも可視化に成功したから十分だと言ってしまえるほど控えめでもない。今回の展示はもっと多くの人の目に触れるべきもので、3日間という期間はそのためにはあまりにも短すぎた。だとすれば今後やるべきことは、この短すぎた期間を、あらゆる手段で取り戻していくことだろう。そのためにはおそらく、この展示が予定通り75日間にわたって開催された場合に比べて、ずっと多くの人のかかわりが必要となると思う。しかしそれは、今回のことを「これでまた状況が悪くなった」などと嘆いて終えることに比べれば、はるかに将来につながりうるプロジェクトである。

社会学者

1976年名古屋生まれ。大阪公立大学大学院経済学研究科准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。専門は社会学、社会思想、多文化社会論。近年の関心はヘイトスピーチやレイシズム、とりわけネットやAIとの関連。著書に『テクノロジーと差別』(共著、解放出版、2022年)、『レイシャル・プロファイリング』(共著、大月書店、2023年)など。訳書にエリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ』(共訳、明石書店、2014年)、ダニエル・キーツ・シトロン『サイバーハラスメント』(監訳、明石書店、2020年)など。

明戸隆浩の最近の記事