ロシアのウクライナ侵攻で再び浮かび上がった「西側」の文化的本質(上) 「東からのまなざし」
発展としてのプロテスタント vs 正統としての正教会
戦争と宗教といえば、長くイスラム教が絡んだテロや紛争が話題になってきたが、今回はキリスト教圏における戦争であり、それがこの戦争が西側メディアによく報道される一因となっている。そのキリスト教には、大きくプロテスタント(新教)、カトリック(ローマン・カトリック)、東方正教会(ギリシャ正教・ロシア正教)の三つのグループがあり、今回のウクライナとロシアの戦争は、直接的には正教会内部の戦いであるが、背後にはほぼプロテスタント圏のNATOとアメリカが存在し、実際にはプロテスタント vs 東方正教会というかたちである。 ヨーロッパはもともと、西欧=カトリック(ラテン語)文化圏、東欧=正教会(ギリシャ語)文化圏と区分されたのであるが、中世の後半から徐々にカトリック圏の宗教改革が進み、北部の西ヨーロッパは総じてプロテスタント文化圏となっていく。そして16世紀以後の「視野の拡大」(後述)とともに、文化的な力の中心が、カトリック圏からプロテスタント圏に移行していくのである。その「南から北へ、東から西への力の移行」がヨーロッパの近代史であり、人類の文明の「発展」でもあった。 建築様式論的に見ても、正教会の建築はイスラム建築に近い。たとえばイスタンブールのアヤ・ソフィア大聖堂は、東ローマ帝国時代に正教会の中心聖堂として建てられ、その後一時的にカトリックの聖堂となり、オスマン帝国のもとではイスラム教のモスクとして重要な地位を占め、現在はモスクではあるが、博物館的にも扱われている。またモスクワに建ついくつかのロシア正教の聖堂は『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』に出てくるような玉ねぎ頭のドームをもつファンタジックなものが多い。 そう考えれば、正教会文化圏が、イスラム圏がもつ「西側」に対する敵愾心(てきがいしん)に近い感覚をもつことも想像にかたくない。東方正教会は「オーソドックス」と呼ばれ、その原意は「正統」である。自分たちこそキリスト教の正統であり本家であるという意識が強く、歴史的にもそれがまちがいであるとはいいがたいのだ。 そこに「発展」としてのプロテスタント vs 「正統」としての正教会という構図が生まれる。西側の目で考えるわれわれは「発展」に重きを置くが、「正統」の立場から見れば、それは亜流であり、分家であり、さらにいえば異端でもあり、堕落でもあるのだ。 プロテスタントの原意は「異議申し立て派」である。今は西側が、ロシアや中国やイスラム勢力を、現状の国際秩序に対する異議申し立て派と位置づけているが、本来(中世から近代への過程において)は逆であった。ちなみにカトリックの原意は「普遍性」であり、世界的拡大の意味を帯びている。 プーチン大統領の母親は敬虔なロシア正教徒であり、大統領自身も教会を手厚く保護しているという。そう考えれば、このウクライナ侵攻は、かつてのソビエトやロシア帝国の領土を取り戻すことより、宗教的な、文化的な動機の方が大きいのかもしれない。 またマックス・ヴェーバーが論じたように、初期の資本主義精神はプロテスタントの倫理観念と結びついていた(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。この結びつきに対抗するかたちで正教会圏に社会主義国家が成立したというのも偶然ではないような気がする。 僕は都市化と資本主義を強く結びつけているが、先に述べた「都市的享楽」は、資本主義の享楽でもある。これはマルクスが論じた「欲望と疎外」の概念とは少し性格の異なる、またもちろんヴェーバーが論じた「勤勉・禁欲」の概念とも異なる、資本主義のもうひとつの側面であり、その「享楽」の外側に生じるのは「嫉妬」というべきものではないか。補足的にいえば、ヴェーバーは、アメリカの資本主義に現れつつあった「心情のない享楽人」に対する批判で、前著をしめくくっているのだ。