北京オリンピックは「4位にドラマあり」 高梨沙羅と羽生結弦に見る「集団」と「個人」
2月20日、北京オリンピックが幕を閉じました。この大会で、日本は金メダル3個、銀メダル6個、銅メダル9個の計18個のメダルを獲得。過去最多だった前回の平昌大会の13個を上回る結果となりました。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、スキージャンプ女子の高梨沙羅選手やフィギュアスケート男子の羽生結弦選手の結果を踏まえ、「今回は4位にドラマがあった」と感じたようです。若山氏が独自の視点で北京オリンピックを振り返ります。 なぜ女子ジャンプ日本のエース高梨沙羅はメダルに届かず4位に終わったのか…荒れた風と不完全なテレマーク
二つの4位
健気にも2回目のジャンプをこなしてランディングしたとき、高梨沙羅はその場で泣き崩れた。小さい身体がさらに小さくなった。 しかしこの映像が世界に与えたショックは小さくないだろう。スーツの規定違反に関する検査者には今も多くの疑問が呈されている。高梨のSNS(インスタグラム)では、真っ黒な画像とともに、日本チームとその関係者と応援した人々に対する強い謝罪が表現され、彼女の精神的なケアが問題となった。 一方、金メダルが期待された羽生結弦は、ショートプログラムの最初から失敗した。氷の穴に引っかかったという。珍しいことだ。 しかし羽生はさほど落ち込んだ様子を見せなかった。フリーでも高得点を出せずメダルに手が届かなかったが、当人も他のスケーターもまたファンも、この結果を淡々と受け止めているようで、むしろ4回転半への挑戦を評価した。 スキージャンプ混合団体戦、フィギュアスケート男子シングル、どちらも4位という、わずかにメダルに届かない結果は、何かしら象徴的であった。そしてこの二人の闘いとその結果に対する本人と周囲の反応を中心に、今回のオリンピックでは、世界の風土と民族の葛藤の問題、人間というものの集団と個人の葛藤の問題を見るような気がした。
高梨沙羅・風土的感情
女子ジャンプ競技がオリンピックの種目として認められるために、北ヨーロッパを中心とする関係者の涙ぐましい努力があったことは知られている。ようやくその念願がかなったとき、どこか東洋から小さな少女が現れて、圧倒的な飛距離によって連戦連勝を続けたのだ。北ヨーロッパの人間にとってこれは面白くないだろう。スキーは大きくアルペン(アルプス山脈の意味)競技とノルディック(北欧の意味)競技に分かれるが、北ヨーロッパの国々は、ジャンプとディスタンス(距離)で構成されるノルディックを自分達の生活と国防の様式として、風土的民族的国技というべきものとして受け止めている。東洋の少女はまさにエイリアンであった。そこにある種の「風土的感情」が働く。 もともと、夏のオリンピックと比べると冬のオリンピックは、白人=ヨーロッパ系の選手ばかりで、日中韓を除けば、アフリカ系も西アジア系も東アジア系も中南米系も、どこに行ったのかと思うほど目立たない。夏と冬の違いは、季節の違いであると同時に、風土の違いでもあり民族の違いでもあるのだ。いわば冬のオリンピックは、ヨーロッパ人の祭典に日中韓が割り込んでいるような格好である。僕の建築論と文化論の基盤が「風土」であるからだろうか、競技のジャッジに何らかの「風土的感情」が働く可能性を考えてしまう。近代思想は人間を普遍的個人として扱おうとするが、人間とは実に風土的存在なのだ。 ジャンプ競技ではこれまでも、身長と体重でスキーの長さを制限する方式において、日本人に不利なルール変更が行われてきたとよくいわれる(否定する人もいるが)。他のスポーツでは、体格の差を考慮して体重によるクラス別をとっているが、逆ではないか。あえて感情的にいえば、乗馬競技において体が小さいジョッキーの馬は小さくしろというようなものだ。F1レースにおいて小さいドライバーの車のエンジンは出力を下げろというようなものだ。高梨選手は特に身体が小さいので、著しく不利である。今回のスーツ検査についての当不当は専門家にまかせるとしても、自らも違反となった女子ジャンプ界を代表するドイツのアルトハウスは「(検査が)ジャンプ競技を台無しにした」と発言している。 また高梨が涙したのは、日本チームに対する責任感からでもある。日本人は集団に対する責任感が強い。たとえば駅伝で、チームのタスキをつなげないことへの感情は自分が負けることよりはるかに悲痛なのだ。高梨の涙は、そういった世界性と風土性と民族性の葛藤の圧力に耐えてきたことを感じさせた。またそれだけに、小林陵侑の金メダルは快挙であった。