防備とは「戦争をしないための準備」 最小戦争論を考える
ロシアによるウクライナに対する軍事侵攻が続いています。また、パレスティナのガザ地区ではイスラエル軍とイスラム組織ハマスとの戦闘が始まって1年以上が経過しましたが、イスラエルの攻撃が続いています。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「現在の国際情勢は、戦争に対して無防備でいることを許さない」と指摘する一方で、「本来、戦争に備えることと戦争をすることとのあいだには大きな距離があるべき」といいます。若山氏が独自の視点で語ります。
戦争に備えることと戦うこととの距離
ウクライナもパレスティナも、戦争が終わる気配がない。しかもパレスティナの状況は虐殺ともいわれる。 新型コロナウィルスの感染拡大は「新しい日常」といわれたが「戦争という日常」はあってはならないことである。とはいえ、現在の国際情勢は、戦争に対して無防備でいることを許さない。 戦後日本は、憲法9条に示されている絶対平和的な理想論と、国際的なパワーバランスにもとづく現実論とに引き裂かれていた。自衛隊はあってもその活動は法的に足を縛られていたのである。しかし安倍政権のいわゆる安保法制は、それをグッと後者の現実論に引き寄せ、日米安保という軍事同盟を強化した。 しかも、米ソ冷戦構造下における軍事はあくまでアメリカ主導であったが、今日の中国の台頭に対してはむしろ日本が矢面に立つような気配だ。 周囲に戦争という現実が転がっている以上、それに備えることは必要だろう。しかし安倍元総理の「台湾有事は日本有事」という発言には、具体的な戦争の足音が近づいているような気がしてドキッとした。本来、戦争に備えることと戦争をすることとのあいだには大きな距離がある。あるべきである。良い国家指導者とは、その距離が大きい、すなわち戦争の防備はしても開戦はしないという指導者ではないか。大久保利通が尊敬していたというドイツのビスマルクはそういう政治家であった。ここではその戦争の「防備と開戦の距離」について、そして考えたくないことだが、やむなく戦端が開かれたとき、その損害を最小化することについて論じてみたい。 またそれは戦争を、損得として考えることにつながる。そう言うと、戦争は善悪正邪で考えるべきもので、損得勘定などは不謹慎だと思う人がいるかもしれない。しかし戦争は、双方自分の方が善であり正であると思うから起こるのであって、双方が冷静に損得を考えれば滅多に起こるものではないのだ。