魂の底から沸き起こる満ち足りた希望──『若草物語』に続く超絶主義の系譜
およそ200年前の米国では、産業革命や南北戦争と激動の時代を過ごし、どんな時にも変わらない、自然と生き方の根源を考える超絶主義思想が生まれました。その思想の実践者には、日本でも人気の『若草物語』の著者ルイザ・メイ・オルコットと父ブロンソン親子もいます。 アメリカ文化に詳しい小説家の井上一馬さんが執筆する連載「生き方模索の現代人へーボストン哲学が語りかけるもの」、第3回は「ブロンソンとルイザ・メイ・オルコット、超絶主義思想の系譜」をつづります。
「彼は最後の哲学者のひとりである」 ブロンソン・オルコットへの賛辞
ラルフ・ウォード・エマーソンと共に若きヘンリー・デイヴィッド・ソローに大きな影響を与えた人物、それが、『若草物語』で知られるルイザ・メイ・オルコットの父、ブロンソン・オルコットである。 ソローは『ウォールデン 森の生活』に次のように記して、オルコットに対して最大限の賛辞を贈っている。 「私は、湖畔で過ごした最後の冬に、もうひとり歓迎すべき訪問者があったことを忘れるべきではないだろう。彼は時には村を抜け、雪と雨と暗闇の中を通って、森の中に私の小屋の灯りを見つけ、いく晩か長い冬の夜を私と共に過ごした。 彼は最後の哲学者のひとりである……彼はその不屈の忍耐力と信念で、人間の肉体に刻み込まれた像、すなわち神を浮かび上がらせる。その像は、人間においては表面が磨耗し傾いているのである。 彼はその温かい知性で、子供たちや物乞いや狂人や学者を包み込み、彼らの思考を受け入れて、そこにたいてい奥行きと品位を付け加える」
「この時代の最高の天才」「彼こそがまさしく“人間”である」
ソローがこう評したブロンソン・オルコットは、貧しい農家の長男として、1799年にコネチカット州ウォルコットに生まれ、ほとんど独学で教師として身を立てた人物である。後に親しい友人になるエマーソンよりは四つ年上、ソローよりは18歳年長だった。 25歳のとき、牧師の叔父が、教師をしていたコネチカット州の町で自分自身の学校を始めたオルコットは、当初から、「子供たちの心を開いて、それぞれの子供が持っている個性と能力を引き出し、温かく育ててやる」ことを目指していた。 だが、子供の良心や自主性に働きかけるこうした教育理念は、今でこそ一般的であるものの、当時はまだ、子供は時には鞭を使ってでも厳しくしつけなければならない、という考え方のほうが支配的で、ブロンソンの始めた先駆的な学校は、地元住民の反発にあって、わずか二年足らずで閉校に追い込まれてしまった。 その後オルコットは、紆余曲折を経て、34歳のときにボストンで再び自らの学校を始める。このときにはすでに結婚し、二人の娘、長女のアンナと次女のルイザも生まれていた。オルコットはこの二人の娘に限りない愛情を注ぐと共に、教育者として人間精神の成長を観察するために、二人の成長を克明に記録していった。 また、このボストン時代にオルコットは多くの知識人と知り合い、エマーソンの超絶主義クラブにも参加するようになった。エマーソンは、ブロンソン・オルコットに初めて会った日の日記にこう記している。 「私には、自分が今、最も非凡な人間、この時代の最高の天才と話しているのだということがはっきりとわかった。彼こそがまさしく“人間”である」