魂の底から沸き起こる満ち足りた希望──『若草物語』に続く超絶主義の系譜
『若草物語』の著者、娘のルイザ
だが、肝心の学校のほうは、その先駆性が災いしてやはり親たちの支持を得られず、一人、二人と生徒が減っていって、5年後には閉鎖に追い込まれてしまった。 この学校の失敗によってオルコットは大きな精神的痛手を負った。そんな彼に、超絶主義クラブの仲間だったエマーソンは、家族を連れてコンコードに移るように勧めた。 そのおかげでオルコットは、コンコードの地でエマーソンと固い友情を育み、超絶主義思想を深めていくことができたのである。オルコットはまたそこで、エマーソンを通じて、後年、彼の最大の理解者になるソローとも出会うことができた。 そしてこのときに同じようにソローに出会ったのが、後に『若草物語』を書くことになる、ブロンソンの娘、7歳のルイザ・メイ・オルコットだった。 ソローはこの頃、兄と共に、日本で言えば寺子屋のような学校を開いていた。その学校にルイザは通うようになったのである。 コンコードの自然の中で生まれ育ったソローは、毎週、子供たちを森や湖や連れていった。ソローは、ハックルベリーやブラックベリーを摘むのに一番いい場所を誰よりもよく知っていたのだ。ソローはまた兄と二人で作ったボートで子供たちを川遊びにも連れていった。ルイザのようなお転婆な女の子にとって、それはまさしく天国への遠足と呼ぶにふさわしいものだった。
コンコードの自然で受け継がれた
私もコンコードを訪れたときにはボートで、独立戦争の始まった地として知られるノース・ブリッジまでコンコード川を下ったが、川べりには色鮮やかな花々が咲き乱れ、木々には葡萄の蔦が巻きついて、それはそれは美しい光景が広がっていた。 そんな愉しいソローの学校もやがて、兄の病気とそれに続く死のために一年足らずで閉鎖されてしまうのだが、そのときにはもうルイザは、ソローからしっかりとコンコードの自然を愛する術を学んでいた。 コンコードへやってきた頃、オルコット家は、父ブロンソンの学校経営の失敗で非常に貧しく、それ以降も貧しくなる一方だったが、ルイザは、たとえ感謝祭の七面鳥が食べられなくとも、コンコードの自然があればそれで十分だと思っていた。ルイザはその回想録にこう記している。 「夏の日の明け方、丘を越えて走っていき、静かな森の中で立ち止まると、木々の梢の間から、川面に太陽が昇ってくるのが見えた。丘も緑の草原も、それまでとはまったく違って見えた。その美しい時には、何かが生まれ、魂の底から沸き起こってくる満ち足りた気分と希望が、私を、神様のすぐ近くまで運んでいってくれるように思われた」 これこそまさしく「超絶」が実現した瞬間と言えるだろう。 「自己の魂を信頼し、自然を師として自己の内なる声に耳を傾け、個人の生を超えた普遍なる生、宇宙の神をも感得しようとする」超絶主義思想は、エマーソン、オルコットからソローへ、そしてソローからルイザへと、着実に受け継がれていったのである。 ---------- 井上一馬(いのうえ かずま) 1956年東京生まれ。日本文藝家協会会員。比較文学論を学んだ後、ウディ・アレン、ボブ・グリーンなどアメリカ文化の翻訳紹介、英語論、映画評論、エッセイ、小説など、多彩な執筆活動を続けている。