東京オリンピックに考える 「バブルを知らない世代」による「個人的挑戦」の時代へ
バブルを知らない世代による「個人的挑戦」
しかし時代は移る。 インターネットの分野での起業が増えている。アメリカの周回遅れではあるがベンチャービジネスが育ってきている。電気製品や輸送機械に代表される工業製品より、マンガ、アニメ、ゲームといったものが日本の強みとなっている。猛烈な個人とは異なるタイプの、新しい個人的挑戦者たちが出てきている。 このオリンピックで活躍した20代を中心として10代、30代に及ぶ日本人は、明らかにこれまでとは異なる文化の中で育ってきた。戦争も、復興も、成長も、バブルも知らない、この世代を何と呼ぶべきか。 われわれの世代はいわゆる「団塊の世代=ベビーブーマー」であり、大学紛争のころには「戦争を知らない世代」とも呼ばれたが、それにならえば彼らは「バブルを知らない世代」だろうか。戦争は日本を物理的に破壊したが、バブルは経済的、精神的に破壊したのかもしれない。その意味では彼らもまた「破壊後の世代」なのだ。この国が、軍事大国でも経済大国でもない平場の国(巨額の財政赤字を考えると穴の空いた平場というべきか)になったあとの世代であり、インターネットが当たり前の世代であり、経済成長に邁進するのではなく地球温暖化に対処しなければならない世代でもある。 彼らは「個人」を大切にする。しかしそれはこれまでの欧米流の個人主義とは異なるような気がする。彼らは個人と同時に「仲間」を大切にするのだ。それは国家や地域や学校や企業という外部から押しつけられた硬い集団ではなく、自分たちで選んだ柔らかい集団としての仲間である。「個人と仲間」の時代なのだ。 先が見とおせないトンネルの中で、徐々に日本は変わりつつある。「集団の力」から「個人の力」へ。「保身の時代」から「挑戦の時代」へ。 くりかえし書いてきたことだが、文化とは、変化し転換されなければならないものだ。「バブルを知らない世代」による「個人的挑戦」の時代が来たとき、日本社会は雌伏の時を終えて、飛翔の時を迎えるのではないか。これまで(たとえばGDP)とは異なった価値観において。もちろん彼らの行く手には艱難辛苦がまちうけている。しかしスポーツのパフォーマンスで示したように、しなやかに、したたかに、乗り切ってくれることを期待する。草葉の陰からかもしれないが見ていたい。 この国は必ずよみがえる。 正直にいえば、オリンピック開催に批判的であった僕も、始まってしまえば夢中で応援した。まだパラリンピックがある。炎天がつづき、新型コロナウイルスの変異株が猛威をふるうなか、命がけで戦うアスリートと、ボランティアなどのスタッフにはエールを送りたいが、それと同時に、崩壊寸前といわれる医療の関係者への感謝と、仕事と希望を失いつつあるすべての人々への同情を禁じ得ない。