国民は菅政権に強い力を求めているのか? 「強権の日本史」から
危機感による分断
歴史は時に強権を求める。 一般的には、現在の日本が上記三つの時代のような歴史的危機にあるとも思えない。 しかしよくよく考えながら外を眺めれば、南シナ海、東シナ海、日本海の緊張がこれまでになく高まっている。安倍政権はこの外からの危機に対して鋭敏であった。内を省みれば、この30年、日本の国力は明らかに低下している。一方で、中国、韓国の国力は飛躍的に増大している。菅政権はこの「内なる危機=国力低下」に鋭敏であるようだ。中でも、かつては世界に冠たるを誇った官僚機構の、モラルと効率、両面での低調ぶりは放っておけない状況である。内閣人事局による官僚支配も、この危機感から出発しているのだが、安倍政権下におけるモリカケ問題では、文書改竄という官僚モラルの崩壊が現象した。現政権が掲げる「改革」の二文字も、この危機感から出ているのであって、そうとうの抵抗を覚悟しているのであろう。 太平洋の向こうでは、大統領選をめぐって、人種、教育、所得などが絡む露骨な「分断」が現象しているが、現在の日本の「分断」は、この「危機感」の持ち方によって生じるのではないか。保守政治家と財界人は「国家の危機、国力の危機」を強く感じている。逆にマスコミや文化人は、強硬な政策に「民主主義の危機、平和主義の危機」を感じている。そして地上波のテレビ番組を見ているかぎり、国民の多くはどちらの危機もさほど感じていないように思える。 米中の緊張が高まる中にあって、また日本の国力が低下しつづける中にあって、安倍政権、菅政権がもつ危機感を理解できないわけではない。どうせやるなら、「三」の語呂合わせのようだが、後継者(河野太郎ともいわれる)も含め、歴史に残る「改革三代」となって、日本再生の道を拓いてもらいたいという気にもなる。要はそこに国民の支持が集まるかどうかだ。国民がどの程度、危機を感じているのか、そして政権側と学者側のどちらの危機感に同調するのか。 国家の命運は「国民の危機感」にかかっているのだ。