国民は菅政権に強い力を求めているのか? 「強権の日本史」から
大久保利通の強権が近代日本をつくった
前にこの欄で、菅義偉を「大久保利通以来の内務省的な政治家」と書いたが、先日、BSの報道番組で五百旗頭真氏が同じようなことをいっていたので、あながち突飛な発想ではなかったのだろう。 明治維新を実現させたのは、薩長連合をとりもった坂本龍馬の功績が大きかったが、明治の世となって、廃藩置県を断行し武士階級を消滅させるという離れ技を実現したのは、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允すなわち「維新三傑」と呼ばれた人たちの力である。政策の中心は大久保で、強権的であったことから反感を買って、各地で不平士族の乱が頻発した。そして西南戦争(明治10年)のあと大久保は西郷心酔者たちによって暗殺される。木戸も含め西南戦争前後に、維新の中心人物はほとんど姿を消したのだが、その後の日本国の基本的な方向は大久保によって定められたといえる。 それに比べれば、薩長閥のバランスに乗った伊藤博文も山県有朋も、あるいは大隈重信も板垣退助も、さほど強権的とはいえなかった。太平洋戦争へと突き進んだ時代も、欧州各国のヒトラー、ムッソリーニ、スターリンといったような強い権力をもつ政治家はいなかった。むしろしっかりしたリーダーの不在が、国民を長期戦略のない泥沼戦争に引き込んだのではないか。 戦後GHQの支配下にいた吉田茂も強い権力を発揮したとはいいにくい。またその後の官僚政治家も同様で、多少強権的だったのは、国民の大反対(全国的な規模のデモ)を押し切って安保改定を強行した安倍晋三前首相の祖父岸信介であろうか。田中角栄は強い権力をもったが列島改造の道半ばで倒れ、中曽根康弘の国鉄民営化も、小泉純一郎の郵政民営化も、国民の支持があったからか、さほど強権という印象はなかった。 そう考えると、菅政権が本当に強い政治権力となれば、大久保利通以来といってもおかしくないのかもしれない。
強権の日本史
もっと歴史を遡ってみる。 天皇と実権政治家が分かれていることの多かった日本史の中で、もっとも権力が集中した時代は、天智天皇、天武天皇、持統天皇の三代ではないか。「親政三代」と呼ぼう。大化改新(乙巳の変)から大宝律令まで、中国の制度に倣い、中国からの文字によって、日本の神話、歴史、地理、戸籍、法律などを記述し、国家の知的基盤を形成した時代である。 これを支えたのが藤原(中臣)鎌足と不比等親子で、以後、天皇家の血筋と藤原氏の血筋は一体化して日本の支配層を形成する。奈良時代、平安時代はこの「親政三代」の遺産で成り立っていたようなものだ。 その遺産が消滅して混乱状態におちいったときに登場したのが源氏と平氏という実力(武力)集団である。「平家にあらずんば人にあらず」といわれた平清盛は強権政治家であった。源頼朝は政略家ではあったが、強権家ではなかった。鎌倉幕府はむしろ日本を分権化したのだ。 強い権力をもつ政治家が輩出したのは、何といっても戦国時代である。武田信玄や上杉謙信はもちろんだが、天下を取った織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三代は圧倒的に強い力をもった。これを「天下三代」と呼ぼう。その後の徳川政権は「天下三代」の遺産で成り立っていたようなものだ。また明治以後の日本の政治も、「維新三傑」の遺産で成り立っていたようなものである。 この、飛鳥時代、安土桃山から江戸初期、幕末維新という三つの時代は、かなり激しい社会的混乱と権力争いがあり、大量の血が流された。また「親政三代」は遣唐使、「天下三代」は南蛮人、「維新三傑」は黒船というかたちで、日本列島は「世界的な文明」の大波に洗われていた。 要するに日本史の中の「強い政治権力」は、世界文明の変化に応じた「国家の危機」において出現するのだ。そしてその権力が、宗教、思想、学問、教育に及ぶ場合も少なくない。