不満の声が噴出。平昌五輪は史上最悪の冬季五輪なのか?
選手ファーストもできていないのだから、さらにファンは置き去りになっている。 しかも、ヨーロッパへテレビ中継する時差の関係で、試合開始時間は、午後9時過ぎとなりノーマルヒルでは風による中断でさらにタイムスケジュールが押した。そもそもジャンプに興味のない地元のお客さんは、寒さに耐え切れず1本目が終わると出口に殺到していた。23時過ぎに終了予定だったが、気温はマイナス10度を下回り競技修了は、0時をとっくに回った。もう残っているお客さんは、ほとんどいなかった。ボランティアを私服で動員、観客席を埋めて表面をうまく取り繕おうとしていたのだが。 クロスカントリースキーのコース沿いには、観客がほとんどいなかった。地元韓国の有力選手が出場しなかったせいもあるだろうが、辛い道中に、声援や拍手がなく盛り上がりに欠けた。 「こんな静かな中でのレースは初めてだ」と口にするヨーロッパの選手もいた。 日本の北海道伊達市大滝区で直前合宿を張っていたスウェーデンのクロカンスキーチームは、競技日程ぎりぎりに韓国入りして、競技が終わると、さっさと帰国した。 日本が金、銀を独占したフィギュアスケートや、小平奈緒との壮絶な優勝争いを演じたイ・サンファや、男子の500メートルでチャ・ミンキュが銀メダルを獲得したスピードスケートは、会場も満員で、かなりの熱気に包まれていたようだが、競技によっての温度差があまりに激しかった。 大会組織委員会は、3日前に、観戦チケットの販売枚数が目標だった92.8%に当たる99万1000枚に達したことを発表した。観客動員数も、54万5000人に達したというが、現場で感じる実情は違った。 フィギュアのチケットでさえ当日買えたのはファンにとってはラッキーだったのかもしれないが。
海外から来るファンにとっては観戦環境も最悪だった。 平昌エリアのホテルは予約で満杯。料金は高騰していた。それでも直前にキャンセルが続出。中には1泊9万円もする宿泊料金が半分から3分の1でバーゲンされ(それでも高いが)、それを手にしたラッキーなファンも。平昌滞在をあきらめ、ソウル市内からの通いを決めた外国人観戦者も少なくなかった。ソウル市内のホテル料金も、倍付けくらいで2万円、安いところで1万円、民宿は5~6000円レベル。日本の応援団は、旅行者の手配でまとまって宿泊していた。 そのソウルからは、高速鉄道KTXで約1時間半の移動。到着駅から、さらにシャトルバスに乗り会場へ移動するのだが、その道路が渋滞した。さらに駐車場から20分弱歩かされて、ようやくジャンプ会場へ着く。 ソウルからは高速バスを使って移動する手段もあった。こちらは、通常なら3時間30分くらいのところが、高速道路の大渋滞があって4、5時間もかかった。日本からの応援団のチャーターバスもソウルから出たが、渋滞に巻き込まれた。 高速鉄道の料金は、往復で4000円強程度だ。日本の応援団は、会場が開門される2時間前から入り口前に並び始めたが、ボランティアに「駐車場へ戻れ」と追い返され、観客のうんざり感も激しくなっていた。 ジャンプ競技を観戦後、ソウルに帰ったら午前4時過ぎになったグループも。 また現地ボランティアのほとんどが英語を話せないため混乱に拍車をかけた。大会運営の係員と「ここで写真を撮るな」「ここは正式ポジションだろう」などというメディアとのトラブル、小競り合いも少なくなかった。注意することで悦にいる係員。運営のガイドラインがまったく徹底されていないのである。 ジャンプ競技の現地には暖をとるための大きなテントがあったが、競技が休憩にはいると、ぎゅうぎゅう詰め。売店は長蛇の列で、暖かい韓国のチゲスープが人気だったが、水ひとつを買うにも、異常なまでの時間がかかった。ちなみに飲み物の会場への持ち込みは禁止されていた。日本の応援団は、会場に来るまでのバスの中で、事前にコンビニで買ったおにぎりやお菓子を食べて、空腹をふせいでいたようだ。 おまけに極寒のあおりから現地でノロウイルスが発生。応援団はマスクを探しまわった。17日の発表によると感染患者は計261人だそうだ。 終電が目的地までたどりつかないことなどもあり、仕方なく移動に使うタクシーは、倍付け値段が当たり前だった。現地に不案内の外国人がタクシーを求めると、一流ホテルのフロントマンが自分の友人に白タクをさせて、その上がりをせしめているなどの“裏ビジネス”も、あれこれと聞こえてきた。 タクシーの3倍付けの料金請求に頭にきた放送メディア関係者が、映像を回しながら理詰めで運転手をやり込めたこともあった。 平昌での五輪開催は2011年のIOC総会で決定した。フランスのアヌシー、ドイツのミュンヘン、そして平昌の3都市が立候補したが、1回目の投票で63票を獲得した平昌があっさりと開催地に選ばれた。トーマス・バッハIOC会長のお膝元であるミュンヘンは、史上初の夏冬開催を目指したが、25票で大敗している。平昌は2010年(バンクーバー五輪)、2014年(ソチ五輪)と、3大会続けての立候補で悲願を達成したのだが、開催地選考のための現地視察を行ってきたIOCの理事はしっかりと五輪開催計画と、その実行性の可否を審査してきたのだろうか。 まして、3月9日から開催されるパラリンピックは、どのようになるのだろう。 これでは「史上最悪の冬季五輪」とのレッテルが貼られるのも仕方がないのかもしれない。今回の大会を教訓に五輪開催地のあり方について議論を深める必要がありそうである。そして、2年後、東京五輪は平昌五輪の実態を教訓にしなければならない。