「止まった町」双葉の応援を志願した女川職員 阪神・西宮から引き継がれた復興の経験 #知り続ける
険しい復興への道「町の未来像」を共有できるか
双葉町にとって悩ましいのは、職員や町民が「町の未来像」という大きな方向性を、同じ場所で共有できないことだ。原発事故の後、双葉の町民は埼玉県など42の都道府県に散らばった。約4000人が福島県内、そのうち約2000人がいわき市に住む。町民の籍は残っているが、ほとんどが今もバラバラというのが実情だ。
双葉町の復興住宅に「帰還」した70代の女性は、町の現状についてこう話す。 「私自身は町に戻ってきてほっとしています。でも、多くの町の人たちはもう町外に生活の拠点を持っていますからね。働く場所ができれば、人も増えるでしょうし、これからは新しく町に来た人たちによって、ゆっくりと『新しい双葉』をつくっていくしかないのでしょう」 双葉町は2030年までに人口を2000人にすることを目標にしている。町の担当者は「当面の目標は避難前の10パーセントの人口(約700人)にすること」と話す。しかし、そのハードルは高い。震災から12年が経ち、すでに多くの人たちがそれぞれの場所に生活の拠点を築いており、一つの町のイメージを共有する機会は少ない。町内には働く場所も商業施設もなく、住民の帰還は思うように進んでいない。 その上、除染土などを一時保管する中間貯蔵施設の問題もある。双葉町と大熊町にまたがる面積16平方キロの同施設からは、2045年までに県外に除染土を運び出すことになっているが、最終処分への道筋は不透明なままだ。こうした状況下で本当に復興が順調に進むのか疑問視する声もある。 ただ、職員や住民がともに「新しい町をつくる」という意識を強く持たなければ、復興は進まないと土井さんは言う。
「女川では町の人々がすぐに集まり、議論する環境がありましたが、双葉町ではそれが難しいのも確かです。たとえ集まる回数が少なくても、時間をかけて一つひとつの機会を大事にして、一歩ずつ着実に進んでいくことが大切です」 震災から12年という歳月の間に、避難当時の状況を経験した職員の退職も相次いだ。現在、震災時に双葉町にいた職員は半分以下だ。 一方、若手職員の中には別の場所で震災に遭い、そのまま10年以上にわたって帰れなかったという経験をもとに、町の復興に力を尽くそうと双葉町職員に応募した人もいる。そうした「10年後、20年後」を担う若手職員に対してこそ、女川で培った復興まちづくりの手法を伝えたいという思いが土井さんにはある。 「将来を見据え、最初のレールはしっかりと敷いていく。今は『ぜんぜん進んでいない』、『まだ何も進んでいない』と言われるかもしれないが、これから着実に復興していく双葉町の姿を継続的に見ていてもらいたい。そして、双葉の復興が進んだ時、西宮の職員の方々や女川の私がそうであったように、いつか双葉の人たちがその経験を伝える側になってほしい」 被災自治体から次の被災自治体へ。復興への思いはノウハウとともに受け継がれていくだろうか。
------- 稲泉連(いないずみ・れん) ノンフィクション作家。1979年生まれ。2005年、『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『アナザー1964 パラリンピック序章』、『廃炉 「敗北」の現場で働く誇り』、『復興の書店』、『ドキュメント豪雨災害』など多数