「止まった町」双葉の応援を志願した女川職員 阪神・西宮から引き継がれた復興の経験 #知り続ける
「女川では民間と行政が一体となり公民連携で復興計画が作られました。現在の町の姿は、その時に議論して作った計画のイメージとほとんど変わっていないんです」 女川町の復興に向けた町づくりの特徴は、海を防潮堤で遮らず、「減災」と「海との共存」というテーマを掲げたこと。それはFRKでの議論を受け、行政と町民が連携して作り上げたものだった。 さらに、震災前から人口減少対策が課題であり、いかに町のにぎわいを創出するかが、民間事業者たちの間で議論されていた。女川の復興まちづくりは、従来のそうした課題と地続きでもあった。
山積する復興業務、足りないマンパワー
駅前の町中心部で地元の人と町外から訪れた人が笑顔で立ち話をしている――。復興事業で商業エリアの整備を担当していた土井さんは壊滅した町を見つめながらこんな未来イメージを持ち続けてきた。その一つの象徴が、2015年にオープンした商業施設「シーパルピア女川」だ。 女川駅に降り立つと、海に向かってレンガのプロムナードが続く。その沿道には飲食店や雑貨店などいくつもの店が並ぶ。そうした景観を民間主導でつくり出し、様々なイベントが絶えず生み出されるように町をデザインした。完成すると、女川は三陸の復興における一つのモデルケースと呼ばれるようになった。
ただ、復興事業の遂行は簡単ではなかった。複数の業務を同時に行うにはマンパワーが圧倒的に足りなかったからだ。 当時、土井さんは駅周辺の復興事業を担当する公民連携室の職員として、商業エリアに建てる施設や道路について町民や事業者と調整を続ける一方、「シーパルピア女川」など複数の事業の事務処理や資料作りに忙殺された。各種事業の認可手続きや法的な手続き、様々な工事関係者や事業者との折衝……。「果たして本当に思い描いた町をつくれるのだろうか」と心が折れそうになったことも、一度や二度ではなかった。 「全てが手探りの中で圧倒的に時間が足りない。気持ち的に行き詰まることもありました。そんな時、女川に来ていた応援職員の方々から、チームでの仕事の進め方を背中で教えてもらったんです。大規模災害の復興事業の経験者でした」 それが1995年に阪神・淡路大震災で被災した兵庫県西宮市の職員だった。