「止まった町」双葉の応援を志願した女川職員 阪神・西宮から引き継がれた復興の経験 #知り続ける
土井さんが応援職員に志願したきっかけは、2020年の夏。被災地の研修で双葉町に初めて来たことだった。 事故を起こした福島第一原発に向かう途中、バスで帰還困難区域を通った時、事故直後の10年前のまま放置されている家々や店舗を見て「町が止まっている……」と強い衝撃を覚えた。 「この時点で女川町は、復興まちづくりのためのハード事業が概ね終わり、『もう被災地ではない』と思える状況でした。それだけに時間が止まったままの双葉町の姿には衝撃を受けざるを得ませんでした」
行政と民間が一体でつくった女川の復興計画
2011年3月11日、地震による津波で、土井さんが勤務していた女川町役場は4階まで波が押し寄せ全壊となった。土井さんの復興事業への関わりはこの時から始まった。 役場庁舎から裏山に避難した後、高台にある小学校に設置された災害対策本部で、着の身着のままで災害対応を日夜行った。自分の妻や子供の安否も分からなかったが、津波で壊滅的な被害を受けた町を前に立ちすくんでいるわけにはいかなかった。
「まずは被災した町、被災した町民を何とかしないといけない。当時はそう自分に言い聞かせ、目の前のことだけを考えて働いていました。正直、家族のことは諦めかけた瞬間もありました。無事だと親戚から教えてもらった時は、涙が溢れました」 女川町の「復興まちづくり」の原点は、町内の事業者を中心に「女川町復興連絡協議会」(FRK)が組織されたことだ。復興まちづくりを議論するために、震災から9日後の3月20日に水道も電気もない状況の中で準備委員会が作られ、1カ月後には設立総会が行われた。 民間主体で組織したFRKは、10~20年後の「責任世代」である30代、40代が中心である。メンバーは50~60人ほど。被災者でもあった彼らは今後の町づくりについて議論を重ねた。土井さんは女川町の復興推進室の初期メンバーでもあり、FRKの考え方についても復興推進室は町の復興計画に反映していった。