存在を消したい過去を乗り越えて──サッカー元日本代表DF酒井高徳が打ち明ける心の傷 #今つらいあなたへ
コンプレックスとの闘いで強靭な心に
当時のポジションはフォワード。恵まれた身体能力や向上心もあってメキメキと頭角を現していく。中学生になって県選抜、地域選抜とステップアップしていくなか、外に出ていけば出ていくほどコンプレックスとの闘いも待っていた。 「初めて会う子が僕を横目に名簿を見ながら『外国人の名前の子なんていたっけ』みたいに言う声が嫌でも耳に入ってくる。別に悪意があるわけじゃないんですけど、ああ、またこういう反応かって思うわけです。試合になれば、悪意のあるものもありました。勝手に『ポール』とかあだ名をつけてきて挑発されたりして、もちろん嫌でたまらなかった。 でもサッカーで起きた事象はサッカーでやり返せばいい。プレーで圧倒して『そんなもんか』『ボールを取れるものなら取ってみろ』って言い返していました。サッカーは、自分の“見返す場”でもあったし、結果を残せば一目置かれる存在になれる。目立ちたくなかった自分にとって、アイツはすごいって尊敬の目で見られる感覚はそれまでなかったので自信になりました。自分を表現できる唯一のものがサッカー。うまくなって人から認められたいという思いは強かったと思います」 コンプレックスから目をそらすのではなく、サッカーというツールを通じて立ち向かった。心を強靭にしていく作業がサッカーでの成長をさらに呼び込んでいったのは間違いない。
壁を乗り越えてつかんだもの
中3のときにU-15日本代表に選出され、そして地元のアルビレックス新潟ユースへの加入も決まる。酒井高徳の名は新潟の地でとどろくようになっていた。 シャイな自分からも知らず知らずのうちに卒業していた。サイドバックに転向したユース時代にはこんなエピソードもある。 「一つ上に世代別代表に入っている憧れの先輩がいたので、本当に金魚のフンのようにくっついて『どのように考えてプレーしているんですか?』『僕はどうプレーしたらいいと思いますか?』とか聞きまくって。その先輩もウザがって最初のほうは『もう来るな』と。でも何だかんだ言いながら結局教えてくれる(笑)。 小学校のころ松本くんに話しかけたときもそうですけど、サッカーになったら我を忘れるところがあるんです。ユースではそのおかげで周囲ともだんだんと壁がなくなって、フラットに話ができるようになっていきました」 高校卒業後にアルビレックスのトップチームに昇格してからの活躍は言うまでもない。1年目から出場機会を得て、20歳のときに母親の出身国であるドイツに渡ってシュツットガルトでプレー。2012年のロンドン・オリンピックではベスト4、そして2018年のW杯ロシア大会ではベスト16入りを果たすなど日本を代表するサイドバックとなっていく。ハンブルガーSVを経て2019年夏、ヴィッセル神戸に移籍。チームが一つになる意味においても欠かせない存在だ。