北京オリンピックは「4位にドラマあり」 高梨沙羅と羽生結弦に見る「集団」と「個人」
羽生結弦・人気がつくる孤立
金メダルを期待された羽生結弦は明らかに失敗した。にもかかわらずさほど悲嘆の様子は見られず、メダルを逃したことに対する批判も、団体戦に参加しなかったことに対する批判も聞かれない。誰もが4回転半への挑戦を讃え、金メダルに輝いたライバルのネイサン・チェンも「(羽生を)もっとも偉大なスケーター」と表現した。「神の領域」ともいわれるフィギュアスケートの新しい次元への挑戦者としての評価であり、そこに羽生選手の、日本という集団性を超える不思議な感覚がある。 羽生にはすさまじいほどの女性人気があるのだ。一度、国立代々木競技場にフィギュア競技を観にいったが、観客はほとんどが女性であり、ほとんどが羽生ファンのように感じられた。今回は中国の女性に大人気ということだ。台湾海峡や経済安全保障など、女性ファンには「そんなの関係ない」のである。日本を超える感覚の原因はそこだろう。羽生の女性人気は、日本もスポーツも超えて、たとえばエルビス・プレスリーやビートルズやマイケル・ジャクソンなどと同様の、世界的な文化現象になりつつある。技と美をともに求められるフィギュアスケートには芸能的要素があるのだ。 しかしそこには危険がともなっている。 大きな人気は、本人の意思にかかわらない大きなエネルギーにとりまかれて生きることで、実は強いストレスである。周囲も気を使いすぎてフランクになれない。「人気がつくる孤立」は、これまでのスーパースターにもよく見られたことで、本来私的なものであるファンという集団性が肥大して、他の社会的な集団性との間に断裂を生じさせるのだ。羽生結弦は異次元の技に挑みながら異次元の人気とも闘っているのである。 スノーボード・ハーフパイプ競技で、金メダルに輝いた平野歩夢のパフォーマンスはみごとであった。もちろん3回目の試技はパーフェクトだったが、2回目の試技に対するジャッジの判定に対して「怒り」を口にしたことも立派である。その怒りは、個人的なものというより、高梨の哀しみとアルトハウスの怒りにもつうじる、不合理なジャッジへの怒りである。逆にショーン・ホワイトの平野への熱いハグは、実にストレートな王者交代の儀礼であった。彼もまた4位であったが、心の勝者であろう。夏のオリンピックでもそうだったが、比較的新しい若いスポーツには、民族を超えた若者たちの連帯が感じられる。