北京オリンピックは「4位にドラマあり」 高梨沙羅と羽生結弦に見る「集団」と「個人」
採点競技は「第二のスポーツ」か
人間は常に自分に親しい集団を応援するものである。 もちろんオリンピックの精神としては、国家や人種にかかわらず、純粋に挑戦する個人を称賛すべきであるが、スポーツはもともと「血の出ない戦争」というところがあり、熱くなって自国の選手を応援するのも当たり前のことなのだ。僕が高梨選手のスーツ規定の問題や平野選手に対するジャッジの問題に感情的になるのも、僕が日本人であるからに他ならない。 しかし、いや、だからこそ、ルールとジャッジは厳格であってほしい。 ものごとの善悪は相対的なもので、反体制集団における善は、体制内においては悪である。しかし体制外においては善となる場合もある。僕はその意味で相対主義者だ。健全なナショナリズムは否定しない。しかし科学、技術、芸術、スポーツなどの不正は、国家、民族、宗教、思想にかかわらない「絶対領域の悪」である。それは罪の大きさの問題ではなく、罪の質の問題なのだ。 とはいえ、時間や距離や重量や回数を争う「絶対競技」とは違って、審判員の採点によって勝敗を決める「採点競技」は、常に曖昧な部分が残り、偏見が入り込む余地がある。ボーボワールにならっていえば、採点競技は「第二のスポーツ」なのだろうか。もし審判にAIが活用されれば、人間よりはるかに公正なジャッジが可能なのではないか。残念ながら、人間の判断は集団性の影響を逃れられないのだ。
集団と個人の矛盾に悩む若い人へ
人間は常に「集団」と「個人」の相剋に悩むものだ。 そして集団にはいくつかの段階がある。より「私的」なものから、より「公的」なものへ、家族、友人、学校、企業、国家、人類といった段階がある。 より私的な集団の英雄はより公的な集団の犯罪者ということはよくある。泥棒の親分はどんなに子分に慕われても社会では悪である。日本がファシズムの時代に英雄だった指導者たちは、敗戦後「人道に対する罪」のもとに処刑された。クラスメイトのイジメは小集団の論理でなされることが多いが、より公的な、学校や社会の論理によって処罰される。今回のロシアのドーピング問題でも、世界と「集団」と「個人」の矛盾が露呈しているように思う。その矛盾がウクライナの問題にも波及しているのではないか。 いいかえれば、ある集団において、より「私的」なものが、より「公的」なものに転換するのである。われわれは「集団」と「個人」の相剋とともに、「小集団」と「大集団」の相剋に悩んでいるが、その価値判断は個人の内に委ねられるべきだろう。西田幾多郎の『善の研究』はそのことを哲学的に論じたものと僕は理解している。人間は、自分が置かれた集団に折り合いをつけながらも、時にその周囲との摩擦を恐れないことも要求される。そしてその判断にこそ人間の魂が顕現する。 ある社会の通念としての道徳が、あるいは指導的立場にいる人間が、「個人」と「集団」どちらか一方の価値観を押しつけるのはよくあることだが、むしろ人間はその相剋から逃れられず、相剋を感じた時点で成長していると考えるべきだろう。 若者たちにとっては、悩みも、苦しみも、哀しみも、孤独も、怒りも、そして喜びも、すべてが成長のエネルギーに転化する。高梨沙羅も、羽生結弦も、平野歩夢も、まだまだ成長するだろう。スポーツ選手としてというより人間として。ワリエワ選手もそうあって欲しいものだ。 限界に挑戦するスポーツ選手は美しいが、なぜかその周辺組織には醜聞が多い。 そしてオリンピックが終わるとともに、ロシアがウクライナに侵攻した。「集団」と「個人」、「小集団」と「大集団」の相剋は極大化するだろう。 今回のオリンピックは4位にドラマがあった。