『べらぼう』“蔦重”こと蔦屋重三郎の前半生、吉原で生まれ育ち、大門前で本屋を始める、「吉見細見」が評判に
(鷹橋忍:ライター) NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の放送が開始された。人気俳優の横浜流星が演じる主人公・蔦屋重三郎は、喜多川歌麿や東洲斎写楽などを世に送り出し、後世、「江戸のメディア王」、「江戸文化のプロデューサー」などと称されるが、その生涯となると、それほど知られていないかもしれない。まずは、希代の版元(出版業者)となる蔦屋重三郎の前半生を辿ってみたい。 【写真】吉原遊郭の名残である五十間道(衣紋坂) ■ 7歳の時に父母が離別 蔦屋重三郎は、寛延3年(1750)正月7日に、江戸・吉原(新吉原/現在の東京都台東区千束)で生まれた。 これは江戸時代中期にあたり、時の将軍は、九代・徳川家重(八代将軍・徳川吉宗の長男)である。 蔦屋重三郎の本名は「柯理」で、「からまる」と読むといわれるが、実は正しい読み方はわかっていない。 ここでは、蔦重と表記する。 蔦重の父は、尾張国出身の丸山重助(まるやま じゅうすけ)だ。重助の素性も、江戸での職業も明らかではないが、吉原で何らかの職に就いていたと考えられている。 母は、広瀬津与(ひろせ つよ)という。江戸の生まれだとされるが、吉原で何をしていたかは不明である。 蔦重に、兄弟姉妹が存在したか否かも、わかっていない。 蔦重の父母は、蔦重が7歳の時に離別する。 父母は吉原を去ったようだが、蔦重は残り、「蔦屋」という屋号で商家を経営する喜多川氏の養子となった。どのような経緯で養子になったのかは定かでない。 蔦屋は、男性客を遊女屋へ案内する「引手茶屋」を営んでいたと考えられている。 こうして蔦重は吉原で、人生の多くの時間を過ごすことになる。 ■ 蔦重が生まれ育った吉原とは 蔦重が生まれ育った吉原について、簡単に触れておこう。 吉原は江戸で唯一の公認遊郭である。 当初は日本橋の葺屋町(東京都中央区日本橋人形町)に設けられていた。 だが、遊郭が江戸城の近くにあることや、風紀の乱れを嫌った幕府は、明暦2年(1656)に吉原の移転を決め、翌明暦3年(1657)の「明暦の大火」(振袖火事)の後、浅草付近の日本堤(現在の台東区千束)に移っている。 蔦重が生まれ育ったのは、移転後の吉原である。 移転前の吉原を「元吉原」、移転後を「新吉原」というが、新吉原は「吉原」と称するのが通例となっており(安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』)、ここでも新吉原を吉原と表記する。 約2万8千坪の総面積を誇る吉原には、妓楼(ぎろう)と称される二階建ての遊女屋が連なり、最盛期には3000人以上の遊女が暮らしていたといわれる。 遊郭といっても、吉原は全国から見物客が訪れる観光名所であり、名士や文化人が集う社交場でもあった。 しかし、蔦重の時代の吉原は、吉原よりも安価で通える非合法な私娼街「岡場所」に客を奪われ、厳しい状態に陥っていた。