『べらぼう』“蔦重”こと蔦屋重三郎の前半生、吉原で生まれ育ち、大門前で本屋を始める、「吉見細見」が評判に
■ 日本橋へ進出 同年(安永3年)、蔦重は版元として初の出版物となる遊女評判記『一目千本(ひとめせんぼん)』を刊行した。 これは、吉原の得意客に向けた配布冊子だと推測されている。 挿絵を浮世絵界の権威で北尾派の祖・橋本淳が演じる北尾重政が担当しており、鱗形屋のバックアップがあったと考えられている(松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』)。 安永4年(1775)、その鱗形屋に危機が訪れる。 5月、鱗形屋の手代・徳兵衛が重板(じゅうはん/同じものを無断で出版すること)によるトラブルを起こし、重い処罰を受けたのだ。 鱗形屋の最高責任者である孫兵衛も、二十貫文の罰金を科せられている。 鱗形屋は社会的信用を失い、経営にも悪影響を与えた。この年の秋に予定していた「吉原細見」の刊行もできなくなる。 その隙を突くように、蔦重は蔦重版の「吉原細見」である『籬(まがき)の花』の出版に踏み切った。 サイズを大きくし、レイアウトを変更した、見やすくわかりやすい蔦重版の「吉原細見」は好評を博した。 鱗形屋も、翌安永5年(1776)には「吉原細見」の刊行を再開したが、天明3年(1783)には、蔦重版の独占状態となっている。 「吉原細見」以外の出版でも着々と成果を挙げ、経営基盤を築いていた蔦重は、この年、江戸の経済の中心地である日本橋へと進出してくことになる。 蔦重は34歳になっていた。
鷹橋 忍