絶品料理とスイーツが大人気~老舗カフェチェーン「珈琲館」
アメリカ本社へ出向くと、命ぜられた職場がシカゴの「ハンバーガー大学」だった。 マクドナルドが創設した幹部教育の総本山だ。世界中のマクドナルドから幹部候補生たちが研修に訪れ、友成がその指導役に抜擢された。 だが、思わぬ洗礼を受けることになる。新たな生徒たちの歓迎会で挨拶をすると、「こんな若造が」「なぜ日本人?」と、会場から大ブーイングが起こったのだ。 「『お前に教わることなんてない』と」(友成) 友成と共に働いていた、当時の状況を知る市川洋一(C-United常務)は「生徒から質問されて答えられないことがあると、必ず持ち帰って、質問を調べて、翌日に英語でレポートにまとめて生徒たちに渡していたそうです」 友成は誠意を尽くした指導で生徒たちの心を動かし、信頼を勝ち得ていった。
プレタ・マンジェ、モスフード…~外食と歩んだ波乱万丈の半生
アメリカから帰国し、再び「日本マクドナルド」で働きはじめた友成に、新たな転機が訪れる。「日本マクドナルド」の創業者で、当時の社長・藤田田さんの指揮の元、2001年、イギリスの人気サンドイッチチェーン「プレタ・マンジェ」と合弁契約を結び、日本で展開することになった。その社長に任命されたのが当時38歳の友成だった。 有機野菜を謳った「プレタ・マンジェ」の高級サンドイッチは日本でも話題となり、13店舗に拡大。マクドナルド時代に同僚だった「ウェンディーズ・ジャパン」の紫関修社長は、当時の状況をこう語る。 「当時、日本のサンドイッチのマーケットはそんなに大きくなかった。マクドナルドのオペレーションは効率化されていて。対極とは言わないけど、手作りで、価格もワンランクもツーランクも上。マーケットを作っていくことに苦労したと思います」 そこに予想外の事態が起こる。 「アメリカのマクドナルドが絶不調になって、ハンバーガー事業以外から全部撤退することになった。『日本も引き揚げなさい』となり、1年半で撤退することに。『冗談じゃない』と。だって腹を決めて転籍までしたのに『やっぱりやめる』……それでマクドナルドのグループを離れました」(友成) マクドナルドを離れた後は「モスフードサービス」のグループ会社「モスダイニング」の会長などを務めた後、投資会社からのオファーで「珈琲館」の再建に乗り出した。 以来、友成は全国に180軒以上あるフランチャイズ店をめぐり、オーナーたちの意見に耳を傾けている。 この日、訪ねた亀有店のオーナーからは、商品の開発会議にアルバイトたちも出席して、意見を出させて欲しいとの提案が。友成は「面白い、やりましょう」と即決した。 友成が社長になり、「珈琲館」は大きく変わったという。 「聞き耳を立ててくれる。FC店が意見を言える環境をつくってくれたので、言いやすい。以前もそれに近いものはありましたが、本部とフランチャイズ店で隔たりがあり、言いにくかった」(亀有店オーナー・鈴木義則)