絶品料理とスイーツが大人気~老舗カフェチェーン「珈琲館」
大学生で借金2000万円!?~外食業界を生き抜く風雲児
友成の人生は常に飲食業と深く関わってきた。1963年、銀座や虎ノ門で飲食店を営む両親の元に生まれた。その店には各界のスターたちが訪れていたという。 だがその後、家業が廃業し、両親は離婚。母一人子一人の生活は食べるものにも事欠き、親戚に分けてもらうこともあったという。 転機は高校時代。アルバイトをしていた焼肉店の店長から「レストランマネジメント」という本をもらった。飲食店経営のノウハウが事細かに書かれたこの本が、人生を決定づける。 「テーブルセッティングから損益計算のやり方、店での冷凍冷蔵庫の扱いなど、どうやってレストランを管理するかが論理的に書かれている。当時の日本の飲食業はどんぶり勘定、水商売、経験と勘に頼るのが基本でしたから」(友成) 高校生だった友成は無我夢中で読み、外食産業で生きていこうと決意する。
20歳の時、夜間大学に通いながら自らの名義で融資を受け、新宿にレストランをオープン。自家製ハンバーグが評判を呼び、ランチタイムこそそれなりに繁盛したが、夜は客のニーズに合わず閑古鳥が鳴く。気づけば銀行からの借入金は2000万円に膨れ上がっていた。 「大学4年になってそのまま店の経営を続けようかどうしようかと思ったが、このままだと借金が膨れる。家も引き払って、店に住むしかない人生になって……」(友成) レストラン経営をあきらめた友成は、就職を決断。選んだ会社が「日本マクドナルド」だった。ここでのしあがり、2000万円の借金を返そうと意気込んだのだが「「最初は手取りで13万5000円ぐらい。借金の月々の返済が12万8000円で1万円残らない。生活できないので消費者金融で借りるしかない。そんなことを最初の1年はやりました」と言う。 それでも死に物狂いで働き、当時10年程度かかると言われた店長に3年で昇格。30歳で地域を統括するスーパーバイザーになった。さらなるチャンスが訪れたのが34歳の時だ。 「日本は店舗数では世界で2番目の国。その大きな国から本社の中枢部門に日本人がいない、『誰かください』とアメリカサイドから話があって、僕は英語ができたので、『おまえ行ってこい』と」