「家族葬」「墓じまい」「散骨」現代のお弔い問題に僧侶が説く〈おみおくりの意義〉
◆すべての苦しみは無明から生まれる 仏教は死者を弔うための教えではなく、「いかに苦を手放して明るく生きるか」という、生き方を説く教えです。 ところが日本では曹洞宗が一般の人々を対象とした葬儀を行うようになってそれが他宗派にも広がり、「死者の弔い」がお寺や僧侶の仕事になってしまいました。 本来の法要は、生前、仏の教えに触れる機会がなかった人は葬儀を機会として、また遺族は身近な人の死を通して、命の無常と生き方を見つめるきっかけを与えるものです。 味噌汁の味噌や具材が地方ごと違うように、弔いにまつわる慣習や文化も地域によって違います。育った環境や親子関係、経済観念によりお弔いの価値観は千差万別なのですから、「自分は自分、人は人」でよいのです。 もちろん私は自分の考えを無理強いする気など毛頭ありません。ここではただ一つ、仏教に「すべての苦しみは無明から生まれる」という教えがあるということをお伝えしたいと思います。 無明とは無知のこと。お釈迦様は知りもしないで判断を下すことの愚かさを説き、その愚かさが人生を暗くすると諭しています。 そこで、お弔いとは何なのかという本質に触れ、そのうえでお弔いの変化にどう対応するのかについて考えていただきたいと思うのです。 ※本稿は、『心が整うおみおくり-残された人がよく生きるための葬儀・お墓・供養のこと』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
大愚元勝