「家族葬」「墓じまい」「散骨」現代のお弔い問題に僧侶が説く〈おみおくりの意義〉
◆求道の旅 そこで事業を後進に譲り、インドから日本に仏教が伝わるまでの伝道ルートを辿る求道(ぐどう)の旅に出たのです。 仏教圏の国に限らず、30カ国を超える地域をめぐり、その土地の宗教や文化に触れ、改めて、慈悲心と智慧(ちえ)を説く仏教の可能性に「いやはや仏教ってすごい!」と目が覚めた次第。 インドの仏教は本来、葬儀や法事といった故人の鎮魂や供養を担うものではなく、生きる人が苦を手放して明るく生きるための道標です。 葬儀や法事は故人の御霊(みたま)の慰めだけではなく、死別の苦しみの中にいる遺族が、自らの命の有限性に気づき、「余生をいかに生きるか」という自覚を促す機能を持っているのです。 このことを理解した私は仏教や僧侶という仕事に大きな希望を見出し、供養について深く考えるようになりました。 人生に迷っているときに、師匠から「おまえは大愚だ!」と名づけられた私ですが、大愚にはもう一つ、何にもとらわれない自由な境地に達した者という意味があります。 人としてさまざまな経験をしてきたことは決して無駄ではなかった。社会の中で人間関係に悩んでモヤモヤしたことも、資金繰りが上手く行かずにアタフタしたことも、苦しみはすべて人の痛みを知ることにつながったと思っています。
◆大愚和尚の一問一答 ハッキリ言ってこの世は綺麗ごとが通用する世界ではありません。お弔い問題にしても、家のしきたり、家族関係のゴタゴタ、お金の問題……いろいろあります。 誰かに相談しても埒(らち)が明かない、理解してもらえない、世間体を気にして近しい人にも打ち明けられないという方もおられることでしょう。お弔いに関して人は孤独になりがちで、だからこそ悩ましいのです。 YouTubeチャンネル「大愚和尚の一問一答」の登録者数は67万人を超え、世界中から寄せられる人生相談は4000人待ちの状態ですが、お弔いに関する相談が目立ちます。 「親の葬儀は遺言どおりにしなくてはいけないのか?」 「通夜や告別式を端折(はしょ)ると故人が成仏できないのか?」 「親の死後、墓守として生きるのが重い」 「自分の代で墓じまいをしてもよいものか?」 大切な人の死をめぐって、現実との狭間でゆれているのです。一見すると横着な発想に思える相談内容からも、こんなことをしたらマズイですよねぇ? という戸惑いがにじみ出ています。 問題はこれからを生きる人々が「こうであらねばいけない」「こうあるべきだ」という概念に阻まれ、にっちもさっちもいかずに立往生してしまっていることです。従来の慣習や世間体にとらわれていると、葬儀本来の意義を見失ってしまう。 本当に大切なことは、身近な人の弔いを通じて「自分の命もまたいつまであるのかがわからない」という現実と、自らの生き方を見つめ直すことなのです。 かくいう私は平成27年に福厳寺31代住職に就任し、令和元年には曹洞宗を離れて佛心宗を立ち上げました。その理由は、仏教の本質に立ち戻る必要を感じたからです。