人はなぜ身分と学歴をまとう者にだまされるのか、フランス超エリート校の廃止が持つエリートの意味
作家の中島敦に、中国の古典からとった『山月記』という作品がある。李徴という若者が詩人を志すが、その傲慢さがたたって、虎になったという話である。そこに次の言葉がある。 【この記事の他の画像を見る】 「人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外見をかくの如く、内心にふさわしいもの変えてしまったのだ」
■権力ゆえの魔物にとりつかれた政治家たち ここでいう尊大な羞恥心とは、他人に対する臆病さゆえの傲慢さである。人は、時としてナルシストになり、尊大になる。パワハラでいま話題の、兵庫県知事の斎藤元彦氏などその典型といえるかもしれない。彼の答弁を聞いていると、李徴に似ているようにも思える。 しかし、こうした傲慢さは、この知事に限ったわけではない。権力という魔物に取りつかれることで、持ち前の心の中の猛獣が頭を持ち上げるからである。民主的に選ばれた首長が、いつのまにか独裁者になるというのは、よくあることだ。心の中にある猛獣が牙をむくのである。
まして李徴のように、試験によって選ばれたエリートならば、なおさらその自尊心は強く、猛獣的激しさは周りのものを足元に置き、奴隷状態にいたらしめる。 民主主義社会では、その能力によって地位が決まる。その能力は、教育機関が行う試験によって決定される。有名大学を卒業し、キャリア官僚になったものには、まさに折り紙つきの名誉が与えられるからだ。こうして将来を保証された特権エリートの周りに、それにおもねる輩が集まる。
後進国家として、先進国家を猛追するにはこうした特権エリートの存在が効果的であったことはいうまでもないが、先進国家ではむしろ彼らはマイナスとなる。試験エリートは与えられた問題を解くだけのエリートであり、自ら新しいものを創造できるエリートではないからだ。 今ではこうした学歴エリートが、地方創生と称して地方にどんどん送りこまれ、地方を創生すべく県知事や市長に天下っている。中央の財政援助を得るために、中央の支店となり、水戸黄門の印籠よろしく上意下達で、地方を国家に従属させていく。これで地方が創生すればいいが、実際には地方の衰退は加速化しているともいえる。