人はなぜ身分と学歴をまとう者にだまされるのか、フランス超エリート校の廃止が持つエリートの意味
わずか100人足らずしか入学を許可されないエリート中のエリート校である。将来の大統領候補である政治エリートはここで培養され、若くして地方自治体や企業などの幹部となり、フランスを支配していく。 フランスの県知事は、選挙制によって選ばれる市長とは違い任命制である。大統領によって任命されたエリートが県政をつかさどる。こうして中央エリートが全県を統制するシステムが成立する。 しかし、マクロン政権のもと、このエリート養成機関であるENAの廃止問題が議論されることになった。そしてとうとう2021年、ENAは廃止された。しかし、学歴貴族がなくなったわけではない。
その廃止をめぐって行われた議論の中心は、ENAへの入学が特定の階層に独占されているということであった。 「学歴貴族」は、ピエール・ブルデューの『遺産相続者たち:学生と文化』(石井洋二郎訳、藤原書店、1997年)の文化貴族たちを意味し、家柄エリートしか知りえない文化資本(音楽や文学などの趣味)がないと入学できないというのである。 確かに面接が重要視される試験においては、それとなく醸し出す立ち居振る舞いで合格は決まる。
フランスのエリートがもつ身分制時代の貴族的気風は、こうして学歴主義の時代になっても残存していったというわけである。 ただもう1つ重要な問題が残っている。それは、入学する出身者の階層の問題だけでなく、こうした文化資本をもって卒業したエリートが、現在のAIデジタル化時代の中で進展する社会の発展の中で、果たして有能なエリートたりえるのかどうか、という問題だ。 同じ問題は、フランスのみならず、イギリスでもアメリカでも起きている問題だ。学歴エリートは、近代社会になって生まれた身分制度から業績主義への変化の中で生まれたものである。
■昔のエリートは今のエリートたりえるのか その前提は、人間の知能や業績は明々白々と計測できるという信念によって裏付けされている。それまでの身分制が崩壊した後、その間隙を縫って生まれたのが学歴主義である。 身分制が崩壊した後の社会をどう運営するのかというときに、学歴主義が身分制に取って代わったのだ。入学難関な大学、合格難関な国家試験をパスしたものは「優秀であるに違いない」という発想が、近代社会の秩序を支えているといってもいい。