人はなぜ身分と学歴をまとう者にだまされるのか、フランス超エリート校の廃止が持つエリートの意味
身分制社会が資本主義社会の業績主義に耐えられなくなって、次第に姿を消していったように、新しいこの学歴主義も新しい時代の要請に対応できるわけではない。その1つの問題が、文化エリートの教養が今の社会システムの急激な変化についていけなくなっていることがあげられる。 そうなると、学歴エリートは「素材としての頭のよさ」を保証するだけのものにすぎないのかもしれない。となると、頭に古典を詰め込んだ教養主義など無意味となる。
その意味で、皮肉なことだが、もっとも進んだ近代主義国家は日本なのかもしれない。日本はフランス以上の学歴至上主義の国家だからである。 学歴は勉学を意味するのではなく、試験の成績だけを意味する。高度な学術的知識など二義的なものにすぎない。だからこそ、日本では高度な教育を学ぶために大学院に進学するものがあまりいない。 日本で学歴という言葉から意味するものは、諸外国と違い、どのブランド大学を出たかということだ。ブランド大学を出たものは、学識は別として、素材たる頭がよいとされている。
素材がエリートの資格であるというのだ。それは大学でなくとも、高校や中学でもいい。ブランド小学校に入ったことも、ある意味、高学歴を意味することになる。 だから学歴エリートは素材とやらは別として、専門的業績も教養もなくともエリートたりえるのである。こうして難関試験に受かっただけで世間にちやほやされる学歴エリートは、『山月記』の李徴のように、傲慢不遜な人間となることが可能となるのだ。 そうした輩が若いうちからちやほやされれば、専門的業績や教養、そして実績のある、学歴のない者を小ばかにしてしまうのも、無理のないことかもしれない。そしてそのまま十分な知識もなく、上座に座り、政治や経済を指導し、支配することになりかねないのだ。
■エリートによる横暴を甘受する国民 しかるに、今日本では、世襲議員という名の特権身分エリートと、こうした学歴(最近では日本以上に権威のあるアメリカのブランド大学を出た)エリートが日本の針路をつかさどっている。植民地政権よろしく、それにかしずかねばならないわが国民は、まことに哀れだというしかない。 しかしながら、国民は、何度もこうしたエリートの横暴で被害を受けながらも、輝かしい身分とその学歴に魅了されて、何度でもだまされ続けることになるのである。