信長ゆかりの古刹取り壊し問題 メディアも惑わす偽書疑惑のある書物とは?
愛知県江南市にある織田信長ゆかりの古刹「久昌寺(きゅうしょうじ)」。廃寺の過程で、安土桃山時代の天正期(1573~1592年)の古材が使われていることがわかったとして、建物の取り壊しの是非をめぐる議論が沸き起こっている。 その議論の中で新聞やテレビに頻繁に出てくるのが、信長の側室「吉乃(きつの)」という名前。しかし、この名前を巡っては、かねてより偽書疑惑が指摘されているある書物の存在が大きくかかわっている。メディアも惑わされている歴史の真偽について、当事者への直接取材などを基にあらためて検証してみた。
廃寺には久昌寺特有の問題が…
久昌寺は織田信長の側室で、長男、次男、長女を生んだとされる生駒家3代当主家宗の娘(戒名・久菴桂昌大禅定尼=きゅうあんけいしょうだいぜんじょうに)を弔うために、1566(永禄9)年に信長から菩提寺にするよう命じられて再建された寺で、代々生駒家が管理してきた。この生駒家は、4代の家長が信長の義理の兄として活躍し、その子孫は江戸時代に尾張藩士となって今に続く生駒氏の本家だ。 今回、19代英夫さんが廃寺と建物の取り壊しを決めたのは、大正時代に建てられたとされる本堂や、それより古いと思われる庫裡が老朽化し、それを修繕・維持していくことが経済的に難しくなってきたためだ。 久昌寺は曹洞宗の寺院として総本山総持寺に継ぐ寺格があり、それなりの高僧でないと住職になれない。このため、住職はいない状態が続いている上、生駒家だけの菩提寺ゆえ檀家は数軒しかない。また、近隣に久昌寺の末寺が8つあるため、それらの本山である久昌寺が末寺の界隈から新たに檀家を募るわけにもいかない。この結果、檀家からの収入に頼る通常の寺院経営ができなかった。 英夫さんは「(廃寺は)当主がいずれしなければならない決断だった」と筆者に明かす。 そして、廃寺に当たって、市文化財保護委員の長谷川良夫さんが建物の図面を残すための調査をしている過程で、思いがけず天正期の古材が発見された。これを検証するため、市の要請で取り壊し工事をいったん中断したところ、この発見をメディアが報道し、取り壊しの是非を巡る議論が巻き起こってしまったというわけだ。