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NHK大河『麒麟がくる』 休止直前に投げ掛けられた「2つの桶狭間」の謎

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THE PAGE

 NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』は新型コロナの影響で6月7日から放送が一時休止されました。その休止直前の回は「桶狭間の戦い」が描かれ、迫力ある戦闘シーンを見て「桶狭間へ行ってみたい」と思った方も多いでしょう。しかし、番組の最後に流れる「麒麟がくる紀行」では、桶狭間の古戦場は名古屋市緑区から愛知県豊明市にかけて広がる丘陵地一帯と解説され、2つの古戦場公園が紹介されていました。番組ではそれ以上の解説がなかったのですが、「なぜ2つ?」という疑問を持った人も多いのではないでしょうか。その謎を追ってみます。

「奇襲」から「正面攻撃」へ、新説に伴い新スポットも浮上

 先に結論を示してしまうと、古戦場公園が2つあるのは「桶狭間の戦い」に長い研究の歴史があり、戦いの真相が今もってわからないからです。  どこでどのように戦いが行われ、大軍の今川勢に少数の織田信長がなぜ勝てたのか。ましてなぜ大将の今川義元まで討ち取れたのか、という謎は、まだ誰も完全に解き明かせてはいません。それにしても、直線距離にして約1キロしか離れていないところに2つの「公園」が並存しているのはよほどの事情があると思われるでしょう。  まず、名古屋市のベッドタウンである豊明市にあるのは「桶狭間古戦場伝説地」。1899(明治32)年、日本陸軍参謀本部が、江戸時代のさまざまな文献を基に独自解釈した『日本戦史・桶狭間役』という軍事研究書を出し、江戸時代から言い伝えがあった古戦場がここだと推定しました。よく知られている「谷間で休む義元の大軍を、迂回して忍び寄った少数の信長勢が、雨の中、山を駆け下りて奇襲する」というストーリーはこの書が基となっています。その後、少数で大軍を討つ奇襲戦というのは日本軍の作戦に、そして何より日本人の精神構造に大きな影響を与えました。常識としてそれから100年近く信じられ、今でもそう思っている人は少なくないようです。  ところが、1980年代になって信長研究の基本とされる『信長公記』を基に、信長は谷間ではなく山の上に陣を置いていた義元を正面から攻撃したという「正面攻撃説」が登場し、陸軍説は否定され始めました。学術的には現在、この正面攻撃説が圧倒的に支持されています。しかし、この説でも納得できる戦いの全体像は示せていません。小勢で多勢を討てたのは偶然と幸運がもたらしたとしか言えないのです。そこで『麒麟がくる』でも登場した「乱取り(敵地での略奪行為)」で統制が乱れたところを突かれた、という奇説も出ていますが、当時の桶狭間には乱取りできるほどの集落はなかったのでは、と考えられています。  一方の名古屋市緑区にある「桶狭間古戦場公園」の方は、ちょうど正面攻撃説が出た頃から古戦場としてのアピールが始まり、ここ20年ほどの間に整備が進みました。地名もまさに桶狭間であり、公園の東側の山腹には本陣跡とされる場所もあります。また、近くにある長福寺や神明社にも戦い当時のエピソードがたくさん伝わっています。正面攻撃説では豊明の古戦場が否定されましたから、『信長公記』に従うならこちら、ということになったのです。

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