国宝の城はもともとそこになかった? 犬山城に秘められた謎に迫る
愛知県犬山市にある国宝犬山城。全国に5つしかない国宝の城の1つだ。しかしこの城がもともとここになかったとしたら…。 「小牧山城」は「安土城」の原型だった!? 織田信長の“実験都市”をうかがわせる新発見続々 国宝に秘められた謎に迫ってみよう。
■不可解な「金山城からの移築」説の扱い
木曽川河畔の絶景に立つ小ぶりながら美しい姿と、古い町並みを整備した城下町の風情などで多くの観光客を集めている犬山城。城を中心とした町おこしの成功例としても全国に知られている。 最初に国宝指定されたのは1935年。戦後の1952年に改めて国宝に指定されているが、実はそのころから大きな謎が存在している。それはこの城が木曽川の上流にあった金山城の移築ではないか、というものだ。 犬山城は「1537(天文6)年、織田信長の叔父である織田信康によって作られた」と案内看板に書かれ、現存する日本最古の天守として初めからここにあったとされている。 しかし、国宝指定時の根拠では「天守が建てられたのは1599(慶長4)年ころ。その天守は天文6年に造られた金山城のもので、家康の命で慶長4年にここへ移築された。その折に望楼のある現在の姿に改造された。しかし初期の天守の面影を多分に残している」とされている。 ところが犬山市は移築に関して今は一言も触れていない。これはどうしてなのだろう。 実は1961年~65年にかけて行われた解体修理の時に移築の痕跡がみつからず、「1537年以降ここに建っている」との修理工事報告書が作られ、移設が否定されたからだ。国宝指定とは異なる見解となる この報告書は、当時の日本建築史の権威で名古屋工業大学教授であった城戸久氏の手によるもの。城郭研究の専門家だ。 文化庁はその後、2005年に監修した『国宝15建造物3』という本で、移築跡はないという城戸報告書を支持しつつも「1601(慶長6)年に造られ、1618(元和4)年に3、4階を増築したもの」としている。1563(永禄6)年築の小牧山城にすら瓦葺きの建物はまだなかったとされているのに、1537年にこのような天守が造られているはずもないから築年を1601年としたのは当然だろう。とはいえそれ以降、文化庁は国宝指定時の根拠を変更する見解を公式には出してはいない。