「小牧山城」は「安土城」の原型だった!? 織田信長の“実験都市”をうかがわせる新発見続々
「小牧・長久手の戦い」で有名な愛知県の小牧山城。天守のそびえる他の城とは違って地味な山城(やまじろ)だが 、近年かなり興味深い調査研究の成果が示されている。今年2月22日に現地説明会が開かれた第12次発掘調査でも、複雑に屈曲した登城路や、そそり立つように削られた岩盤などが見つかった。それらから想像できるのは、天下統一の道を歩み出していた織田信長が描いた“実験都市”としての姿だ。
30歳の信長が突如小さな山に築いた城と町
名古屋城から北へ約12キロ、愛知県小牧市にある小牧山城は、織田信長が初めて自身の城として築いたことが知られている。小牧山は標高85.9メートル、総面積約21ヘクタールの、おわんを伏せたような丸い山だ。まわりに他に山はなく、濃尾平野北部にぽつんとここだけ高くそびえている。 1563(永禄6)年、織田信長はこの山に城を築いた。3年前の「桶狭間の戦い」で駿河(静岡県)の今川義元を破った信長は、戦いの後、三河(愛知県東部)から東を同盟を結んだ徳川家康に任せ、尾張(愛知県西部)の守護・斯波義銀を追放して尾張全域をほぼ手中に収めていた。そしてその関心はもっぱら京都の情勢に向いていた。そんなころちょうど30歳となった信長は、それを記念してなのか、守護が居住していた尾張の中心地の清須(現愛知県清須市)を離れ、まったく新しい城と城下町を、何もない山と原野に築くことにした。それが小牧山城とその城下町である。 かつて小牧山城は、斎藤氏の美濃(岐阜県)や、敵対した尾張犬山の織田信清を攻めるための砦のようなものといわれてきた。しかし2004年、小牧市による第1次試掘調査で石垣の存在を確認。さらに、その後の発掘調査によって、日本の城の中では最も早い時期の、本格的な石垣を持つ城であることがわかってきた。
戦国時代の「Woven City」
小牧市はそれから16年に渡ってこの城の発掘調査を続けている。2011年には「佐久間」と墨で書かれた石垣石材が発見され、14年には石垣が三段の巨大なものであったことが確認された。翌15年には搦手口(からめてぐち)で門の礎石がみつかり、16年には登城路の大手道で岩盤を削り、その上に石垣を積むという巨大な壁面が確認された。18年には山上部で信長の館の可能性がある屋敷群があったことがわかり、建物北側の壁沿いでは玉石敷と排水用側溝、捨てられた天目茶碗といったものがみつかっている。 その間、城下町の調査研究・発掘も進み、住人の職種に応じた町割りがなされ、直線道路で区切られた長方形街区とその中の短冊型の地割、下水道まで完備された計画的な城下町の姿が確認されている。 これらの調査から考えられるのは、信長が古くさい清須の町を捨て、小牧に先進的な都市を新たに造ろうとしたのではないかということだ。ちょうど今、トヨタ自動車が静岡・東富士(静岡県裾野市)に「Woven City」というITS都市を造ろうとしているように。 信長はこの頃、京都で将軍を支えようと考えていた。そのために、経済基盤として領国尾張の商工業発展をさらに促すべく造ったのが、小牧だったと考えられる。土地に縛られることが普通であった戦国時代の領主が、まったく新しい場所に新しい城と町を造ってしまうというあたり、信長が革新的と言われるゆえんだろう。のちの安土の城と町の原型が、15年も前の小牧に存在していたのだ。 その象徴が、それまで誰も見たことのない巨大な石垣をもつ城として造られた、小牧山城だったのではないか。