「いまの漫画は下手」 『DRAGON BALL』元編集者が語る漫画の描き方とビジネス #昭和98年
──そうすると、違いましたか。 「メキメキとうまくなって、面白い漫画が描けるようになりました。これって文章をどう書くかと同じなんです。自由作文を書けと言われても、ルールを知らないと困ってしまう。けれど、ルールがあれば書ける。名詞があり、主語述語があり、5W1Hが必要といった原理原則を教える。それを教えず、『見て学べ』ではだめなんです」 ──伝えたのは新人漫画家だけですか。ベテラン漫画家には教えなかったのですか。 「既成の作家は自分の経験則がある。経験則があると、それを壊さないといけないけれど、その時間は僕にはなかった。自分が担当した新人漫画家に必ず言っていたのは、1年半か2年のうちに必ずデビューさせるということ。長いように感じるかもしれないけれど、そんなことはありません。中途半端にデビューしてすぐ消えるのがいいか、ちゃんと準備して10年食えるのがいいか。百発百中というわけにはいきませんが、3割くらいは生き残れる。僕は職業作家、漫画で食っていける人間を作りたいし、そういう意欲のある人じゃないと厳しい世界だと思います」
ファクスもない時代 鳥山明さんとのやりとりは
鳥嶋さんは、漫画賞募集に投稿してきた鳥山明さんに連絡、編集者として担当した。鳥山さんは1978年に読み切り作品でデビュー、1980年から『Dr.スランプ』を連載すると大ヒットとなった。1984年に『DRAGON BALL』を開始。当初は冒険ファンタジーだったが、しばらくして格闘アクションへと切り替わると熱狂的な人気を獲得。1995年で連載は終了するが、その後もテレビアニメ、映画、ゲームなどでいまなお高い人気を誇る作品に成長した。
──鳥山明さんのときはどういう感触でしたか。 「彼の作風を見て、時代の変化を感じていました。ちょうどジャンプで『すすめ!!パイレーツ』が、週刊少年チャンピオンで『マカロニほうれん荘』が人気を得ていたとき。どちらもギャグ漫画で、キャラクターが遊んでいるだけで面白い。鳥山さんは絵のタッチがうまかったし、バカバカしいものをやりたかった。目指したのは『トムとジェリー』でした」 ──洗練された線、緻密な描き込み、バカバカしさなど、『Dr.スランプ』は従来の漫画とは違った、異質な作品として登場しました。 「毒にも薬にもならないけれど、気持ちが軽くなる。これが漫画だと思いました。僕の予想どおり、連載1回目でアンケート3位、3週目で『リングにかけろ』を抜いて1位。最大のうまさはキャラクターです。(アラレちゃんという)目が悪いロボットってそれだけでおかしい」 ──鳥山さんは愛知県在住ですが、打ち合わせなどはどうしていたんですか。 「顔を合わせるのは月1回くらい。でも、土日も含め、毎日電話していましたね。声を聞けば健康状態が分かるくらい。原稿が一度でも遅れたら東京に来てもらうと彼に言って、連載を始めてもらった。厳しいと言えば厳しいですが、当時はファクスもない。急ぎのときは(ラフな下書きである)ネーム原稿を航空便で送ってもらい、空港に取りにいったこともありました」