伊勢丹をやめたら負け犬になる──元日本代表・吉田義人が天国と地獄のラグビー人生を語る
のしかかった新たな責任。ここから徐々に、吉田のラグビー人生はピッチの内より外での格闘が増えていく。チームでは若い選手たちから不満をぶつけられ、会社からは与えられた予算や環境でのやりくりを求められた。20代半ばで中間管理職のような板挟みを味わった。 「あのときの自分は、まだその器じゃなかったから大変だった」 激動の時間を過ごして迎えた2度目のW杯。伊勢丹同様に屋台骨が揺らいでいた日本代表で、吉田は屈辱を味わう。 「91年大会のときと違って、チームはバラバラ。所属チームごとの派閥もあって、日本代表というワンチームじゃなかった」 初戦のウェールズ戦、連続代表キャップが27で止まるまさかのメンバー外。吉田は人目をはばからず泣いた。ピッチに立った最終戦のニュージーランド戦は17―145のW杯史上最多失点。「ブルームフォンテーンの悪夢」と呼ばれる大敗を喫した。W杯初勝利からわずか4年で、文字通り天国と地獄を味わった。
辞表を出して、31歳でプロリーグに挑戦したわけ
結局、96年が吉田にとって最後の桜のジャージーとなった。そして、99年に伊勢丹が廃部を決める。この間、筑波大学大学院でスポーツ教育を学び、会社ではマネジャー(課長級)に昇進していた吉田が表舞台に姿を見せることも少なくなっていた。ただ、この男のラグビーに対する情熱が枯れていたわけではなかった。 廃部が決まった翌年の2000年3月、吉田は伊勢丹に辞表を出した。 「仕事とラグビーの両輪で俺は成り立ってきた。伊勢丹に百通りの仕事を見つけにいって、次に自分のやるべきことは何かと考えたら、今後はスポーツ界に貢献したいという答えに行き着いたんです」 それがプロリーグ挑戦だった。アマチュアリズムに殉じ、全精力を傾けてきた吉田だからこそ、その限界も見えていたのだろう。1995年には統括団体の国際ラグビーボード(現・ワールドラグビー)がオープン化、いわゆるアマチュア規定撤廃を決めていた。世界のラグビーには既にプロ化の波が押し寄せていた。