伊勢丹をやめたら負け犬になる──元日本代表・吉田義人が天国と地獄のラグビー人生を語る
W杯との“二刀流”をこなした百貨店店員
伊勢丹入社から半年後、イングランドなどで開催されたW杯。身長170センチ足らず、体重も70キロそこそこの小兵が、強豪アイルランドを相手に華麗なステップで60メートルを独走し、ジンバブエ戦では2トライを挙げて日本のW杯初勝利に貢献した。この後、日本がW杯で白星を挙げるのは2015年の南アフリカ戦まで待たなければならなかったことを考えれば、いかに大きな勝利だったかが分かる。このときの活躍が認められ、翌92年には世界選抜に選出。最強のニュージーランド代表を相手に、後々まで語り継がれるダイビングトライを決めた。 仕事では出世コースといわれた婦人服第一部に配属された。大学時代からの知名度は抜群で、店頭には写真やサインを求めるお客さんの列ができた。ちなみに研修中に初めて自分で売った1本のネクタイは、購入した女性が実は吉田のファンで、その場で「プレゼント」されたという逸話が残る。 社会人として仕事を覚えながら、日本代表としても世界と戦う。五輪やプロスポーツが24時間フルタイムで競技に専念するのが当たり前になった今の時代では想像もできない。まさに、サラリーマンとラガーマンの“二刀流”をこなすスーパーマンだった。 入社2年目には会社が専用グラウンドを確保し、ラグビー部の士気も上がった。この年、既に1部リーグ(当時の東日本社会人リーグ)に昇格していた伊勢丹は強豪相手にも健闘。初めて全国大会出場を果たすなど、まさに上り調子だった。だが、その勢いは長く続かなかった。
「ワンチームじゃない」2度目のW杯で地獄を見た
入社3年目の93年。吉田はその一報を日本代表のアルゼンチン遠征中に知らされた。伊勢丹が業績不振からラグビー部を縮小するという内容だった。帰国後、監督やコーチの契約打ち切り、グラウンドの売却を正式に伝えられた。 このとき24歳。これからアスリートとして全盛期を迎えようとしているときだった。心配した日本代表の先輩たちが「うちに来い」と温かい言葉をくれた。 ここで伊勢丹に残る選択をしたのも、吉田らしいといえば吉田らしい。 「ここでやめたら負け犬になっちゃうなと思った。結局、ラグビーやりにいっていたんじゃないかと言われるのが悔しくて」 強化部から事実上の同好会に格下げされ、監督もコーチもいないチームで、吉田は会社からの辞令でキャプテンに指名される。